豊太閤花見行列~時を越えた「醍醐の花見」4年ぶりに開催~京都・醍醐寺 (4/5ページ)

バリュープレス

 

【醍醐の花見とは】 


[資料: https://files.value-press.com/czMjYXJ0aWNsZSM3ODgyOCMzMTYwNzkjNzg4MjhfeUhoRVVGWkNNRS5KUEc.JPG ]
豊臣秀吉は慶長3年の3月に、1,300名もの女性を招待して盛大な観桜の宴を行い、現在でも「醍醐の花見」として語り継がれています。 
 この豪華絢爛な醍醐の花見は、決して自分の権力を誇示するためのものではなく、人への想いに溢れたものでした。

 慶長2年3月、秀吉は徳川家康らを伴って突然醍醐寺を訪れます。馬場の桜を愛でたり、上醍醐へも登ったことが記録に残されています。 

この地で花見をすることを決めた秀吉は、応仁の乱以降荒れ果てていた醍醐寺の伽藍の復興と翌年花見をすることを申し出ました。 

五重塔の修復を手始めに、金堂や仁王門の修理を手掛け、三宝院の庭園(自ら設計し、縄張りをしたと言われています)や表書院など多くの建物を復興し、現在の醍醐寺の姿はこの時に造られたものが多く、国宝、重要文化財になっています。 

近畿一円から700本余りの桜の木を集めて参道に植えさせ、工事中には何度も何度も醍醐寺へ足を運んだことが当時の座主・義演の「義演准后日記」に記されています。 

慶長3年3月15日、花見の当日、1300名の女性たちには一人3着ずつ西陣織の着物が贈られ、道中2度のお色直しが行われました。着物の代金は莫大なものとなり、不況だった京都の街は一気に活気づいたようです。 

伏見城から醍醐寺の花見会場までの道中警護は、戦国大名、武将たちが担当し、花見を楽しんだ男性は、秀吉、秀頼、前田利家の3名だけと言われています。

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