豊太閤花見行列~時を越えた「醍醐の花見」4年ぶりに開催~京都・醍醐寺 (5/5ページ)
参道の桜を楽しみながら、花見会場である上醍醐へ少し登ったところにある平坦な地・やり山へ向かいます。その道中には八つの茶屋が設けられ、それぞれの茶屋では担当した武将たちによる趣向を凝らしたもてなしが行われたそうです。この時に設けられた茶屋の一つが三宝院の純浄観(重文)として伝えられています。
歌会も行われ、秀吉が詠んだ3首の歌の中に「あらためて 名を替えてみん 深雪山 うづもる花も あらはれにけり」という歌があります。
深雪山、というのは実際に雪が積もっていたのではなく、山から見下ろした醍醐の桜はまるで深く雪が積もっているようだという光景を表したものです。
この後、醍醐寺では深雪山の山号を使うようになりました。
では、何故秀吉はこのような盛大な花見を行い、醍醐寺復興のためにここまでしてくれたのでしょうか。
花見を行う2年前、慶長伏見の大地震が起こり、伏見城の天守が崩落して多くの方が亡くなったりケガをしました。それ以来落ち込んだり、大変な苦労をしている女性たちを励ましたいという気持ちから花見を行ったとも言われています。
また秀吉は天正13年(1585)に関白に就任し、翌年朝廷から豊臣姓を賜っています。
関白という職は天皇に次ぐ役職で、公家しかなれないものですが、朝廷内では関白職をめぐる争いが起きており、当時の関白であった二条昭実から譲り受けました。
当時の醍醐寺の座主・義演は二条昭実の実弟でした。
そういう縁もあり、秀吉は、武家では絶対になれなかった関白就任に対する恩義の返し場所として醍醐寺を選んだのではないでしょうか。
その年の秋には紅葉狩りを楽しみにしていた秀吉ですが、思い叶わず夏にその生涯を閉じました。
醍醐の花見は、恩には恩で報いる心と、人の心を思いやり大切にする豊臣秀吉の人生の集大成であったとも言えるのではないでしょうか。
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