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日刊大衆

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「次の将軍は定めない」と遺言して亡くなった室町幕府将軍がいた。四代将軍足利義持だ。結果、後継者がくじ引きで決まるという前代未聞の事態となった。なぜ義持は、そんな遺言を残したのか。

 彼の父は北山第(その一部が金閣寺)を造営した足利義満。室町時代を代表するビッグネームの父を持つ義持の苦悩の生涯と、不可解な後継者選びの謎を追った。

 義持が父義満に将軍職を譲られたのは応永元年(1394)一二月。彼が九歳のときだ。

 しかし義満は、同一五年五月六日に、はやり病をこじらせて急死するまで、権力を掌握し続けた。しかも、義満は足利家の家督を譲らず、義持は将軍とはいっても名ばかりだった。

 また、彼が父に叱責され、武家伝奏(朝廷と幕府の連絡役)で義兄に当たる日野重光に救済を頼んだこともあり、父との反目は深刻だったといわれる。

 そんな父の急死で束縛から解放された二三歳の義持がまず実行したのは、朝廷が義満に「大上天皇」(上皇)の尊号を追贈しようとした申し出を断ったことだ。

 それに触れるにはまず、父の義満が生前、どんな政治を志向したのか確認しておく必要がある。

 彼は将軍、すなわち幕府のトップとしてより、天皇家及び、朝廷と一体になった政治を断行しようとし、皇位簒奪の疑いを掛けられている。

 応永一三年(1406)に後小松天皇の母が亡くなった機会をとらえ、義満は正妻の康子を准母(天皇の母に準じる地位)とすることに成功。

 これで「准父」(天皇の父)となった彼は、義持の二番目の弟義嗣を皇位に就けるべく画策したとされる。

 実際、義嗣を親王に准じ、内裏で元服の儀式が行われたところまで話が進んだものの、その年に義満が急死し、本当にその狙いがあったかどうか分からないままとなっている。

 ただし、野望が実現したら、義満は天皇の父(上皇)となるわけだから、その尊号を辞退するのは父の意思に反するどころか、義満時代の政治をも否定することに繋がる。

 事実、義持は日明貿易でも父の時代の政策を全面的に否定した。

 義満は明(当時の中国)との交易に伴う利益を重んじ、皇帝から「日本国王」に封じてもらう朝貢貿易に甘んじていた。

 ところが、義持は、彼を新たな日本国王に封じるという明の永楽帝の使者の弔意だけ受け、朝貢貿易については拒絶。その後も明からの使者に会わず、ついに両国は国交断絶した。

 このように義持の治世は父の時代の反動政治といわれるが、その後、南朝の残存勢力(コラム参照)や父の時代に親王に擬せられた弟の義嗣の挙兵と苦悩が続いた。

 応永二五年(1418)正月、京の神護寺に幽閉した義嗣を殺害、ようやく家督問題に完全決着をつけた義持は同三〇年(1423)には、一七歳だった嫡男義量へ将軍職を譲った。

 ところが、同三二年(1425)に、その五代将軍義量が病死したことで計算が狂い始めたのだ。結果、正長元年(1428)正月に義持が四八歳で亡くなるまで将軍は空席となった。

 義持が後継を決めずに死去し、六代将軍がくじ引きで決められたこともそうだが、三年間、将軍が不在だったというのも異常事態だ。

 それではなぜ、義持は後継を決めなかったのか。

 まず義量が死去した際、まだ一九歳だった彼にも、父の義持にも、後継となる男子がいなかったこと。次に義持の正室や側室との間にまだ男子誕生の可能性があったことだろう。

 事実、義持は石清水八幡宮(京都府八幡市)の社前で男子出生の可否をくじで占って「吉」と出た日の夜、男子誕生の夢を見て、それを神託だと確信。よって猶子(事実上の養子)をもうけなかったという。

 義持の知恵袋的存在だった醍醐寺の僧、満済准后の日記に記載される話だから事実だろう。つまり、信心深い義持がこの神託を信じ、必ずや男子をもうけることができると確信していたわけだ。こうして将軍空位のままの政権運営が続いた。

 しかし、正長元年正月七日、義持は入浴中に尻にできた傷を化膿させ、細菌が体中にまわる敗血症の症状を呈し、命の危険が迫った。そこで再び将軍後継問題が幕府の最重要課題に浮上したのだ。

 しかし、義持が一向に後継指名する素振りすら見せないことに焦った幕府の管領をはじめとする重臣らは満済にすがった。こうして彼が義持を訪ねて二人だけでその真意をただしたものの、その返事は「重臣らに任せる」の一点張り。

 そこで、やむを得ず満済は将軍候補である四人の兄弟の中から「八幡宮の神前でくじを引いて決めたらどうでしょう」と提案し、義持も了承した(『満済准后日記』)。

■重臣に一任することで政治的安定を優先か!?

 その日の夕刻、義持が危篤に陥り、重臣らは神前でくじを引き、翌日の正月一八日に義持が死去したあとに開封して、彼のすぐ下の弟である義教が将軍に決まった。

 くじ引きで決めた理由として、『建内記』(内大臣万里小路時房日記)には、三回とも、くじは「義円(義教の出家名でその後還俗)」と出たことから、くじはイカサマだったことを挙げる。つまり、神意を借りて諸大名らを心服させるためにイカサマを仕組んだというのだ。

 しかし、『建内記』の内容の真偽が問われ、今ではイカサマ説は否定されている。

 では、義持の真意はどこにあったのか。謎を解く手掛かりは、彼が家督を継いだ頃に隠されている。

 当時、家督を弟の義嗣と争い、伏見宮貞成親王の記した『椿葉記』によると、当時の管領斯波義将の「おしはからい」で義持の相続が決定したとある。つまり、幕府最大の実力者に推されて家督を継いだ義持は、在職中に幕府の有力守護家の邸へ御お成なりを繰り返し、重臣らとの協調関係を築きながら政治を行ってきたのだ。

 父の政策をことごとく覆したように映るものの、朝廷との関係や日明貿易を巡る政策を否定したのは、それが義将ら重臣の意思だったからだとされる。

 次の将軍が嫡男なら重臣らも異存はないにせよ、以上のような状況下で兄弟の誰かとなると、意に沿わない者も現れるはず。

 それより義持は、重臣らに一任することによる政治的安定を優先したのだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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