織田信長が「楽市令(楽市・楽座)」を出したのはなぜ?その社会的背景を探る (3/3ページ)

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今川氏真が建立した観泉寺

おそらく、商人と寺社の結びつきというのはもともと社会問題として存在していたのではないでしょうか。それで、各地の大名たちは経済活性化のためにそれぞれ大鉈を振るう必要があったのでしょう。

六角・今川による政策と信長の違いは、その規模と徹底ぶりにありました。もっとも信長も何もかも自由にさせたわけではなく、地域によっては、特定の豪商に商人の統制を任せるという方策を取っています。

彼は商売の自由化を推し進めたものの、一方では、自分の息がかかった商人が市場を統制し、自分の経済方針が浸透しやすいように工夫していたのです。

楽市令とは何から何まで自由にしていいという単純なものではなく、信長によるルールの変更だったと言えるでしょう。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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