熟練の老将・柴田勝家はなぜ敗れたか?「賤ケ岳の戦い」の羽柴秀吉の知略を探る
信長あっての名将
柴田勝家といえば織田家の筆頭家老であり、名将の一人です。
彼は一度は信長の弟・信勝の家臣として信長排除を試みていますが、その後は許されて信長の配下に。そして畿内平定戦や姉川の戦い、一乗谷の戦いなど、織田信長にとっての主要な戦いのほとんどで大活躍しています。
そんな彼ですが、その人生のピークはあくまでも信長あってものだった、という感があります。本能寺の変の後、信長の後継を決める清須会議で秀吉と決裂して以降は、どこか破滅への道を進んでいるようにすら見えます。
その後、なぜ賤ケ岳の戦いで彼は敗北し自害に追い込まれたのかというと、やはり勝家の家族関係を把握した上でそれを利用したりした、秀吉の知略によるところが大きいでしょう。
福井市にある柴田神社。柴田勝家を主祭神とし、妻の市が配祀されている
勝家と秀吉の両者が武力衝突に至ったのは、1582年12月のことです。秀吉が長浜城を落とし、岐阜城の織田信孝を降伏させたのがきっかけでした。
その後、秀吉軍は優勢で戦いを進めていきますが、戦いは4月まで長引いてきます。それまで雪のため動けなかった勝家も、ようやく出陣して近江柳ケ瀬まで進軍しました。
老将、知将に敗れるさらに、今度は信孝が岐阜で挙兵して秀吉に対抗し、秀吉は信孝討伐のために動き、するとその間に勝家や家臣の佐久間盛政に大岩山砦を攻めさせて岩崎山砦の高山右近も破らせて……と、まるで将棋のような攻め合いに発展します。
しかしここで秀吉は、近江北部戦線での敗北の報せを受けて、約50キロの道のりをたった5時間で引き返して佐久間盛政を攻める美濃大返しという荒業をやってのけます。
このあたりから、勝家軍の勢いに陰りが見えてきました。盛政は賤ケ岳まで撤退したあたりで、前田利家が秀吉方に寝返ったのです。これが勝家側にとっては大きな痛手でした。
あとは秀吉軍が破竹の勢いで勝家を破っていきます。盛政軍に続いて勝家軍本隊を破り、勝家は本拠地である北ノ庄へと敗走。秀吉はさらにそれを追撃し、北ノ庄城で勝家と妻のお市は自害するに至ります。
こうして見ると、賤ケ岳の戦いでの秀吉の「大返し」や、前田利家の裏切りなどが大きな痛手となって、柴田勝家は滅ぼされたことが分かります。
彼は歴戦の老将でしたが、狡知に長けた秀吉には敵わなかったのです。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
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