電光石火の光秀討伐!羽柴秀吉は「中国大返し」をいかにして成し遂げたか (2/3ページ)
ちなみにこの時、毛利氏から追撃されないかということが秀吉の最大の懸案でした。しかし毛利軍はこの時点で信長の死を知らなかったか、あるいは本能寺の変の謀反の詳細が不明だったなどの理由から、追撃する意志はなかったようです。
「大返し」はいかにして成ったかさて、高松城を発った秀吉は、怒涛の勢いで7日には姫路城に到着。10日は兵庫、11日には尼崎に着いています。しかもただ駆け抜けただけではなく、その間に畿内各国の国人へ書状を送り、自分の味方にする段取りまでつけていました。
そしてわずか一週間で彼は光秀軍と対峙し、山崎の合戦を制します。
彼の、この人間離れした中国大返しが可能になった理由はいくつかあります。まずひとつは、箝口令を敷いて信長の死が毛利軍に伝わらないようにしたこと。そうして和睦を結べば、追撃される心配はありません。
また先述の通り、畿内各国の国人を味方に引き入れたことも大きいでしょう。