「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【後編】 (3/4ページ)
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そもそも松尾山城には、西軍総大将・毛利輝元が入ることになっていました。そして、千田氏は、吉継は当初玉城に布陣して、豊臣秀頼の入城を待っていたとの説を唱えます。しかし、史実では秀頼着陣が叶わないうちに、東西両軍が関ケ原に布陣を終えてしまったのです。
三成はもはや秀頼出陣は叶わないと悟ったでしょう。そして、午前8時、東軍・福島正則勢と西軍・宇喜多秀家との間で戦端が開かれました。
その後の経過は歴史に残る通りです。当初は、西軍有利の状況で戦闘が進みますが、島津義弘の戦闘拒否、吉川広家の裏切りによる毛利秀元勢・安国寺恵瓊勢・長塚正家勢の行動不可。そして、小早川秀秋勢の裏切りが決定的となり、開戦から約6時間後、西軍は壊滅したのです。
家康は歴史の必然性を見抜く力を持っていた千田氏が唱える新説の根幹は、石田三成らが関ケ原に豊臣秀頼のための陣城・玉城を築き、秀頼が豊臣家旗本を率いて入城することでした。そこには、豊臣家栄光の「千成瓢箪」が高々と掲げられたことでしょう。