「どうする家康」秀頼公、いまだ着陣せず!関ケ原の戦いにおける三成・吉継ら、西軍首脳部の誤算【後編】 (4/4ページ)
もし、関ケ原の戦いに秀頼が出陣し、玉城に「千成瓢箪」の馬印が掲げられたら、福島正則・加藤清正ら多くの豊臣恩顧の諸大名は、すぐさま軍を引いたはずです。
小早川秀秋らの裏切りもなく、勢いを得た西軍は一丸となって、家康率いる東軍に襲い掛かったことでしょう。もちろん家康の運命も大きく変わり、おそらくは、江戸幕府は歴史上に存在することはなかったと思われます。
ただ、本当の意味で豊臣家滅亡の戦いだった大坂の陣でも、秀頼は最後まで陣頭に立つことがありませんでした。そこには、淀殿の頑強な意思が働いており、それが最悪の結果を招くことになりました。関ケ原の戦いにおいても、秀頼出陣を阻んだ最大のものは、淀殿の意志であったはずです。
そう考えると、歴史に「もしも」はなく、全てが必然性で動いているのかもしれません。石田三成らは、豊臣家のためなら淀殿は進んで幼い秀頼を陣頭に立てるはずだと考えました。しかし、家康は秀頼が出陣することとはないと判断した。そしてその判断を、豊臣家を滅ぼす、その瞬間まで持ち続けていた。家康は、歴史の必然性を見抜く力を持っていたのでしょうか。そこが、260年という長期政権を築きあげた、徳川家康の偉大さなのかもしれません。
3回にわたり、長い文章をお読みいただきありがとうございました。
※参考文献:新説戦乱の日本史[最新研究]SB新書
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