織田勢から見た三方ヶ原合戦。運命の12月22日を『信長公記』はどう伝えたか【どうする家康】

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織田勢から見た三方ヶ原合戦。運命の12月22日を『信長公記』はどう伝えたか【どうする家康】

時は元亀3年(1572年)12月22日。武田信玄(演:阿部寛)率いる精兵およそ三万を、わずか八千で迎え撃った徳川家康(演:松本潤)。

後世にいう三方ヶ原の合戦は武田の圧勝。家康は命からがら戦場から逃げ出し、恐怖のあまり馬上で失禁してしまったという俗説があります。

逃げる家康(右端)。小国政「味方ヶ原合戦図」

さて、そんな徳川存亡の窮地とも言える状況下で、盟友の織田信長(演:岡田准一)は援軍を出してくれました。

その数はおよそ三千。いささか少なくも感じますが、徳川と合わせて一万余騎が浜松城へ立て籠もれば、武田の進撃を食い止めるには十分でしょう。

(ただし家康は血気に逸って出撃し、三倍以上の武田軍に惨敗してしまいますが)

果たして織田勢から見た三方ヶ原の合戦は、どのようなものだったのか、今回は『信長公記』を読んでみたいと思います。

名誉のため、友情のために討死した者たち

十二月廿二日 身方か原にて数輩討死在之 去程に 信長公 幼稚より被召使候御小姓衆 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨 加藤彌三郎 四人 信長公之蒙御勘当 家康公を奉憑遠州に身を隠し居住候らひし是又一番合戦に一手にかゝり合手前無比類討死也爰に稀代之事有様子者尾州清洲之町人具足屋玉越三十郎とて年頃廿四五之者有四人衆見舞として遠州浜松へ参候折節 武田信玄 堀江之城取詰在陣之時候定て此表可相働候左候ハ々可及一戦候間早々罷帰候へと四人衆達而異見候へは是迄罷参り候之處をはづして罷帰候ハ々以来口ハきかれましく候間四人衆討死ならは同心すへきと申切不罷帰四人衆と一所に切てまハり枕を並て討死也 家康公中筋切立られ軍之中に乱れ入左へ付て身方か原のきし道之一騎打を退せられ候を御敵先に待請支へ候馬上より御弓にて射倒し懸抜御通候是ならす弓之御手柄不始于今浜松之城堅固に被成御拘 信玄者得勝利人数打入候也

※『信長公記』巻五 元亀三年壬申

【意訳】……三方ヶ原の広野は織田と徳川勢の亡骸に埋め尽くされた。そこには長谷川橋介(はせがわ きょうすけ)・佐脇藤八(さわき とうはち)・山口飛騨(やまぐち ひだ)・加藤彌三郎(かとう やさぶろう)の姿も見える。

彼ら四名は幼いころから信長の小姓として仕えていたが、ある時信長の不興を買って放逐されてしまう。

四人は浜松で家康の保護を受けており、今回の戦で名誉回復を図ろうと揃って参陣。四人とも真っ先駆けて見事に討死したのであった。

またこの時、尾張清州で具足屋を営んでいた玉越三十郎(たまこし さんじゅうろう)という若者が四人を見舞いに浜松へ来ていた。

合戦に先立って、四人は「やがて武田勢はこの浜松までやって来るだろう。武士でないそなたが巻き添えを食うのは忍びなきゆえ、早々に帰るがよい」と説得する。

しかし三十郎は「貴殿らの見舞いにやって来ておきながら、いざ貴殿らに苦難が迫っていると知って見捨てたら、武士以前に男の面目が立ちません。かくなる上は、各々方と共に戦いまする」と譲らない。

「武士ならずとも、義によって助太刀致す」四人に加勢する玉越三十郎(イメージ)

果たして三十郎も、四人衆と共に壮絶な最期を遂げたのである。

そんな修羅場の中で家康は敵の大軍へと乱入。血路を切り拓いた先にも待ち構える敵の伏兵を馬上から次々と射倒し、辛くも窮地を脱したのであった。家康の弓は今に知られたことではない。

命からがら浜松城へ逃げ込んだ家康は守りを固め立て籠もり、大勝利を収めた信玄は城を攻めず兵を退いたのであった。

終わりに

以上が元亀3年(1572年)12月22日の全記述になります。

要約すると「多くの将兵が討死し、その中にはかつて信長に仕えていた小姓4名と、彼らの親友1名が混じっていた。家康は必死に戦い脱出した」と言ったところでしょうか。

将兵の被害についてはあまり触れておらず、四人と一人の美談が大きくクローズアップされているのは意外な印象ですね。

武田勢に惨敗する徳川勢。歌川芳虎筆

信長にしてみれば「チッ。家康め、しくじったか」「籠城しておけばよいものを、血気に逸りおって、少しは懲りたか愚か者め」程度の感覚だったのかも知れません。

ちなみに、文中の「馬上より御弓にて射倒し懸抜御通候是ならす弓之御手柄不始(馬上から弓で敵を射倒し突破した。家康の強弓は今に始まったことではない)」は、家康が尊敬する源頼朝(みなもとの よりとも)を意識したのでしょうか。

……武衛又廻駕。振百發百中之藝。被相戰及度々。其矢莫必不飮羽。所射殺之者多之。……

※『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月24日条

【意訳】武衛(頼朝)は馬上から敵を射ること百発百中。その矢を飲まざる(矢に当たらない)者はおらず、多くの者を射殺した。

石橋山の敗戦後、捲土重来を果たした頼朝を、家康になぞらえていたのかも知れませんね。

三方ヶ原の敗戦は、後に家康を大きく雄飛せしめる契機となったことでしょう。

※参考文献:

『信長公記』国立公文書館デジタルアーカイブ 仲川太古 訳『現代語訳 信長公記』中経出版、2013年10月

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