戦国時代に暗躍した連歌師の原点「漂泊の歌人」宗祇の謎多き生涯! (2/3ページ)
連歌というのは、五・七・五の発句に別の者が七・七の脇句をつけて、そのあと、また別の者が五・七・五と続けていく形式の文芸。
最後の句(これを揚句という)まで百韻(一〇〇句)、もしくは百韻一〇巻(一〇〇〇句)と繋げていくのが一般的だ。
宗祇が連衆の一人となった例の会は、一二名で一〇〇句を詠んでいるから百韻連歌と呼ばれる(ただし、現存しているのは七二句のみ)。
その百韻連歌で発句を詠んだ専順が、宗祇の二番目の師匠となった。
そうして寛正七年(1466)頃、四六歳になっていた宗祇はようやく一人前の連歌師として認められ、東国の武士たちに招かれて、それからほぼ八年の間、各地を歴遊した。
これが彼の漂泊の歌人としての始まりとなるが、その東国で心敬という連歌師に師事できたことが飛躍の第一歩となった。
心敬は当時の連歌師たちとは一味も二味も違う作風で知られ、宗祇の作風に広がりが生まれたといわれる。
続いて東とうの常縁から古今伝授の指導を受けてその免許を授かったことが、大げさかもしれないが、その後の連歌の歴史を変えた。醍醐天皇の勅命によって紀き の貫つら之ゆ きらが延喜五年(905)頃に編纂した『古今和歌集』は歌人らのバイブルとされる一方、そこに収載される歌を正確に解釈するには一定の知識や技術が必要だった。そのための歌の講釈指導を古今伝授という。
美濃国の国衆だった常縁がその古今伝授の奥儀を極めており、東国遊歴中の宗祇が彼に乞うて文明三年(1471)、一回目の講義を受けた。続いてその二年後の文明五年、彼が五三歳のとき、常縁から
「古今集の説ことごとくを僧宗祇に授けた」とする免許状を受け取ったのである。
こうして和歌の極意を会得した宗祇が連歌を芸術として確立させ、彼の作品は正風連歌と呼ばれた。
当時、応仁の大乱(1467~1477年)が勃発していた京へ戻った宗祇は種玉庵という庵を営み、やがて、奈良へ疎開していた関白一条兼良の連歌会に呼ばれるまでになる。
文明八年(1476)には年頭恒例の幕府の連歌会に初めて参加。