戦国時代に暗躍した連歌師の原点「漂泊の歌人」宗祇の謎多き生涯! (3/3ページ)

日刊大衆

その連衆には前将軍足利義政や太閤二条持通、青蓮院尊応(天台座主)ら錚々たる顔触れが揃った。宗祇が一流の連歌師になった証しだ。

 そして、宗祇の名を中世の文化史に刻むことになったのが明応四年(1495)に完成した『新撰菟玖波集』。宗祇ら当代随一の作者の連歌を集めたもので、多くの選者の中で序文にその名が記されているのは宗祇だけ。彼は作品だけではなく、編集の中心にいたわけだ。この連歌集は勅撰に準じる扱いになった。

 このとき宗祇、七五歳。七年後、彼は漂泊の歌人らしく、旅の途中、箱根湯本で八二歳の生涯を閉じた。

■戦乱時には各陣営間の連絡役を担った節も!

 ところで、この時代、多くの公卿や僧侶・大名らが連歌を作ったものの、彼らは連歌作者であって、連歌師とは呼ばない。連歌師は、連歌作者、かつ指導者であることはもちろん、連歌会をうまく運営するためのディレクター的役割を担った。

 また、当時、戦勝祈願のために連歌会を催すことが少なくなく、武将たちにとって連歌は趣味と実益を兼ねた娯楽でもあった。宗祇が全国を旅したのは、守護大名や国衆ら地方の実力者から連歌会のディレクターとして招かれたからだ。彼の旅日記によると、地元の武将たちが一堂に会して彼の到着を待つ熱烈な歓迎を受けたこともあったという。

 それは、宗祇が中央政界で有力な公卿らと連歌を通じた親交があったことにも一因がある。地方の武将たちは宗祇を通じて中央政界とのパイプを築き、かつ、情報を収集しようとしたのだろう。

 各地で戦乱が起きると、政界に人脈があって自由な立場であることが珍重され、宗祇は情報を求める両陣営から招かれるようになった。

 たとえば、東国で関東公方の足利成氏が関東管領の上杉氏と合戦を繰り返すようになると、宗祇が上杉方の五十子陣(埼玉県本庄市)に招かれた一方で、敵対する成氏の本拠である古河(茨城県)へ呼ばれたことも確認できる。同じく美濃でも宗祇は敵対する陣営にそれぞれ出入りし、伊勢や近江では陣営間の連絡役を担っていた節が窺える。

 こうして彼は地方へ連歌を普及させるとともに、戦国時代に連歌師が武将間の調整役を担い、文書の運び屋などとして暗躍する素地を作ったといえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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