戦国時代に暗躍した連歌師の原点「漂泊の歌人」宗祇の謎多き生涯! (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 連歌という詩歌のジャンルがある。ルーツは平安時代にさかのぼり、和歌の余興としてスタートしたため、和歌より一段下に見られていた。

 ところが、室町時代の応永二八年(1421)に生まれた宗祇が、連歌を和歌の余興から芸術の域にまで高めたといわれている。

 しかも面白いことに、戦国時代には連歌師が合戦などで敵対する武将らの間を巧みに行き来し、調整役のような役割を果たした。

 このように戦国時代に暗躍した連歌師という職業を確立させたのも宗祇といえよう。西行松尾芭蕉とともに「漂泊の歌人」といわれる宗祇の生涯を追った。

 彼も前半生が不明な歴史上の人物の一人。まず、これまで飯い の尾お 姓だったと伝わるものの、確証はなく、その姓は母方のものと考えられるようになった。

 出身地も近江、紀伊、摂津と諸説ある。そのうち、宗祇と同じ時代に生きた臨済宗の僧、景徐周麟が「江東」、すなわち琵琶湖東岸の生まれだと記しているため、今のところ、近江出身説が有力だ。

 また、宗祇が近江国内の国衆(武士)に宛てた書状の分析から、彼の父は近江守護の六角氏に仕えた武士だった可能性が浮上している。

 しかし、武士の息子である彼が、どういう経緯で連歌師になったのかは不明だ。宗祇の名と彼の作品が初めて公式に記録されるのは三七歳のとき。それまでの足跡でわずかに確認できるのは、彼が京の相国寺で修行し、三〇歳頃より連歌を作り始めたということだけ。初め、宗そ う砌ず いという連歌師について学んだようだが、この頃のことはよく分からない。

 前述した通り、宗祇が三七歳のときに連歌会の連衆の一人に名を連ね、ようやく彼が歴史の表舞台に立ったことが分かる。連衆というのは連歌会の参加者のこと。ここで、連歌のルールについて触れておこう。

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