信玄の死を隠し通した!?武田信玄の影武者として知られる武田信廉を紹介【どうする家康】 (2/3ページ)

Japaaan

戦いの時は主に本陣守備や後方守備を任され、武田軍を裏で支える役割をしていました。

画家として知られた信廉

信繫作の武田信虎像/Wikipediaより

元亀4年(1573)信玄が病死した後、信廉は一族の重鎮として飯田城や大島城の城代として武田家を支えることになります。この頃には父の信虎が帰国を望んだため、居城の高遠城で引き取りました

引き取った理由として、信虎が信廉のことを可愛がっていたことや、可愛がられたことに対する感謝の意を示したことが要因となっているかもしません。

この時に描いた「武田信虎像」は重要文化財となっています。他にも、「武田信虎夫人像」や「渡唐天神像」の作品を残し、画家としても知られています

勝頼とはそりが合わず…

武田勝頼/Wikipediaより

信廉は、武田勝頼とそりが合わず、天正3年(1575)の長篠の戦いに参加するも、穴山信君と共に早々と退却しています。

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