酒井忠次(大森南朋)を呼ぶときの「左衛門尉(さゑもんのじょう)」にはどんな意味がある?【どうする家康】 (2/3ページ)

Japaaan

なお、左衛門府に対して右衛門府は「(う、を略して)ゑもんふ」と読み、官職についても右衛門督(ゑもんのかみ)などと読むのが通例です。

多くは自称(私称)だった戦国武将の官途名

自称から、本物の左衛門督となった酒井忠次(画像:Wikipedia)

ところで、ここまで話を聞いて「ところで酒井忠次って、京都で衛門府に仕えていたの?」という疑問を持たれた方もいるでしょう。

中にはそういう官職と勤務実態が合致していた武士もいるでしょうが、少なくとも酒井忠次が朝廷に仕えた記録はありません。

要するに名前だけの名誉職です。しかも朝廷から正式に授けられた官職ではなく、自称(私称)でした。

こういう官職の私称を官途と呼び、代々襲名したり主君から許されたり、自分で勝手に名乗ったりしていたのです。

酒井家では左衛門尉を代々襲名しており、『寛政重脩諸家譜』によれば忠次の父・酒井忠親(ただちか)や兄の酒井忠善(ただよし)が左衛門尉を名乗っていました。

その例にならって忠次も左衛門尉を襲名しましたが、やがて天正14年(1586年)左衛門督に任官しています。これは主君・家康の推挙によって正式に認められたものです。

「酒井忠次(大森南朋)を呼ぶときの「左衛門尉(さゑもんのじょう)」にはどんな意味がある?【どうする家康】」のページです。デイリーニュースオンラインは、酒井忠親酒井忠善武家百官官途名寛政重脩諸家譜カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る