同時多発!数時間でハイ終了?「天下分け目」関ヶ原の戦いの意外な実態とは【前編】 (2/3ページ)
なぜ、このような重要な戦いがほんの数時間で完結してしまったのか、その理由は小早川秀秋の裏切りにありました。よくご存じの方も多いでしょうが、少しその経緯をたどっていきましょう。
1598年に豊臣秀吉が死去し、わずか5歳の遺児・秀頼が後を継ぎますが、そこでは五大老と五奉行が政権を運営する体制がとられました。徳川家康はこの時五大老の一人でしたが、次第に彼の独断専行が目立ち始め、他の大名たちとの間に軋轢が発生します。
決定的だったのが、1600年の家康と上杉景勝の対立でした。景勝が勝手に築城したことをとがめた家康が、上杉討伐のために挙兵したのです。
ところが、ここで秀吉恩顧の大名たちも家康に反旗を翻しました。
反家康連合の結成動きがあったのは、家康が会津に出陣した直後でした。五奉行のうち石田三成・増田長盛・前田玄以たちが中心となり反家康連合を結成すると、家康の弾劾状を各地の大名に送ったのです。
これに呼応し、島津義弘・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川秀秋が大阪へ集合。もちろん上杉景勝もこれに加わります。
この動向を知った家康は、上杉討伐を中止しました。7月26日にUターンして、東国の諸大名とともに三成討伐に向けて動き始めます。