武田の血統と誇りを後世に。勝頼滅亡後も生き延びた信玄の甥・川窪信俊の武勇伝【どうする家康】 (2/4ページ)
後に家康の怒りがとけて帰国を許された際、信実は「徳川殿は鷹狩りをお好みだそうだから、これを土産に持って行くがよい」と、二羽の鷹をくれたのでした。
そんな信実は長篠の戦い(天正3・1575年5月21日)で討死してしまうのですが、信実の子・武田信俊が匿われているとのこと。
「それはよい。鷹の恩返しも兼ねて、さっそく召し抱えよう」
という訳で、父の遺徳によってとり立てられた信俊は、甲斐国川窪に所領を与えられます。
これを機に、苗字を川窪と改めた信俊。武田の誇りに恥じぬよう、家康の甲信地方平定(天正壬午の乱)に武勇を奮うのでした。
数々の合戦で武功を重ねる天正壬午の乱とは、天正10年(1582年)6月に信長が本能寺で横死すると、甲信地方が大混乱に陥った一連の戦乱です。
信長に抑圧されていた武田残党はもちろん、北条や上杉といった周辺勢力も黙ってはいません。
そんな中、命からがら堺から逃げ帰った家康は、さっそく甲信地方の平定に乗り出しました。
信俊は柴田康忠(しばた やすただ。家康家臣)に従って佐久・小諸・岩尾方面を転戦します。