【朝ドラ らんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯④

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【朝ドラ らんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯④

門外漢でも入門可能?良吉が受け入れた外部の研究者

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【朝ドラ らんまん】要潤演じる田邊彰久のモデル!東京大学理学部の初代教授・矢田部良吉の生涯③

植物学の第一人者であった良吉は、植物学において後進の指導・育成においても余念がありませんでした。

明治15(1882)年2月25日、東京大学生物学会から分離独立する形で東京植物学会が創立。同年には機関誌『植物学雑誌』が創刊されています。

良吉は同会の設立に深く関わったとされており、植物学の世界においては主要な立場にいました。

後進の育成は、大学の学生だけに留まりません。学外の研究者にも出入りを許した例がありました。

朝ドラでは、主人公が大学への出入りを許可されることが一苦労だったシーンがありましたね。少し閉鎖的なイメージを持たれるかと思います。

しかし良吉は、在野の研究者・伊藤篤太郎に対して植物学教室への出入りを許可しています。

伊藤は東京大学総長・伊藤圭介の孫であり、イギリスのケンブリッジ大学に留学したこともある人物でした。

朝ドラの主人公・槙野万太郎と同じ立場の人が実際にいたのだと思うと、少し意外ですよね。

東京大学理学部。良吉は外部の研究者の出入りも許可していた。

破門事件勃発!弟子たちの関係決裂の原因とは…

在野の研究者を育てようとしていた良吉ですが、思わぬ形で関係が決裂してしまいます。

明治17(1884)年、良吉は戸隠山で植物を採集。明治21(1888)年、開花した標本をロシアの植物学者・マキシモヴィッチに送ります。

すると良吉の採集した本種が新種であると判明。正式発表前に花の標本をマキシモヴィッチに送ることとなりました。

しかしここで事件が起きます。この新種は、亡き伊藤篤太郎の叔父がかつて採集し、伊藤が学名をつけたものだったのです。

伊藤は良吉らに先んじてイギリスの植物雑誌『Journal of Botany, British and Foreign』に新種として発表。遅れた良吉は、献名することができませんでした。

激怒した良吉は伊藤の教室の出入り禁止を決定。この事件から、新種である「トガクシソウ」は「破門草」の異名でも呼ばれることになります。

加えて、良吉は他にも在野の研究者とトラブルを起こしていました。

明治17(1884)年、朝ドラのモデルである牧野富太郎が上京。良吉によって当時の帝国大学理科大学(東京大学理学部)の出入りを許可されます。

牧野は、文献や資料などの使用を許可されて研究活動に専念。しかし大学の資料を使いながら、個人で研究発表したことが問題視されます。

結局、牧野も植物学教室の出入りが禁止となってしまい、一度は植物学の道が断たれてしまいました。

良吉は在野の研究者に対して寛容だった一方、軋轢を生むことも多かったようです。

牧野富太郎。良吉が植物学教室の出入りを許した。

日本の植物学の歩みを進めた瞬間、道を断たれる…

植物学の世界において独創状態の良吉でしたが、やがてその活動にも終わりの時が訪れます。

明治23(1890)年10月、良吉は『植物学雑誌』の中で「泰西植物家諸氏ニ告グ」とする文章を英語で載せています。

文章は、東京大学に集積された標本と文献資料を土台に、日本の研究者によって植物記載を行うことを宣言したものでした。

良吉は『植物学雑誌』の誌面にいて論文を次々と発表。のみならず図版を掲載した『日本植物図解』や『日本植物編』などの書籍を出版しています。

しかし人に対して激烈な批判を加える性格が災いし、良吉は周囲から敵対視されることも多くなっていました。

やがて良吉は東京大学学長・菊池大麗と対立。確執を深めたとされ、大学から非職(休職だが、事実上の停職処分)とされます。

確かな理由は不明ですが、良吉の周囲との軋轢、加えて東京女子高等学校での騒動が槍玉に挙げられたのでは、と予想できます。

そしてこの瞬間、良吉による世界の植物学研究に加わる思いは、完全に断たれたことを意味していました。

東京大学学長・菊池大麓。良吉と対立を深めたとされる。

演説に見る、古き学問を認める姿勢

植物学者の道が断たれた良吉ですが、教育における活動には変わらず関わり続けていました。

明治24(1891)年、良吉は群馬県の「桐生教育会」において演説。教育と学問について論じています。

良吉は、従来の教育制度では不十分だと考えており、学校の運営設立が急務だという立場でした。

学術研究と教育は密接不可分の存在であると、良吉は考えていたようです。

演説において良吉は、教員によるより良い教育を行うための方法論を力説していました。

内容は教員の地位保証や、専門分野を探求するための時間を確保の必要性まで多岐にわたります。

さらに良吉は江戸時代の本草学者たちを引き合いに出していました。

封建時代に生きた彼らは、むしろ身分安全な環境で学問に勤しんでおり、学問に対する誠実さがあったというのです。

この頃の良吉は江戸時代の岩崎灌園の『本草図譜』写本を入手。本草学に触れた形跡が見られます。

かつては西洋主義的な考えが強かった良吉。時を経るにつれ、古き良きものを認める姿勢も見られていました。

岩崎灌園の『本草図譜』。良吉も写本を入手していた。

東京大学を去った後、東京高等師範学校の英語教授となる

明治27(1894)年、良吉は正式に東京大学の教授職を免官。完全に東京大学から追われることとなりました。

翌明治28(1895)年、良吉は東京高等師範学校に奉職英語担当の教授として生徒指導にあたります。

東京高等師範学校は官立の教員の養成機関でした。留学経験と高い英語能力を買われて、良吉が任命されたようです。

赴任後の良吉は、学生の育成に熱心に取り組んでいました。

同年、良吉はアメリカの魚類学者・ジョーダンに手紙を送付。高等師範学校の英語教授に適した人物の紹介を頼んでます。

ジョーダンは当時のスタンフォード大学の初代学長であり、世界でも指折りの学識経験者でした。

学生の英語能力向上のため、良吉は立場や国籍を超えて活動していたことがわかります。

良吉は、東京高等師範学校に在籍時、周囲の人間にも恵まれていたようです。

良吉が赴任した時、東京高等師範学校の校長であったのが、大河ドラマ『いだてん』でも知られる、柔道家の嘉納治五郎でした。

良吉はかねてから嘉納治五郎と親交を結んでおり、実際に手紙のやり取りもしています。

明治31(1898)年、良吉は東京高等師範学校の校長職に就任。教員たちを束ねる存在として、日本の教育行政に関わり続けます。

嘉納治五郎らの推挙があったかはわかりませんが、良吉の能力が評価されての人事であることは間違いありません。

嘉納治五郎。良吉の上司であり、かねてから親交があった。

翌明治32(1899)年の日記には、日本全国から良吉を訪ねてきた卒業生や就職希望者などが記されています。

東京大学を去ってからも、良吉は忙しく学生たちの指導・育成に明け暮れていたことがわかりますね。

避暑中の鎌倉で悲劇が起こる…

矢田部良吉は、研究分野だけでなく教育においても、日本の歴史を変えたと言っていい人物でした。

しかし程なくして、良吉は不慮の事故に遭遇することなります。

翌明治32(1899)年8月7日、良吉は避暑中の鎌倉で遊泳中、溺れて命を落としてしまいました。享年47。

後年、良吉の墓石の碑銘の草稿は、彼の一番弟子である植物学者・齋田功太郎が担当。大学を離れてもなお、慕われていたことがわかります。

鎌倉の海。良吉はここで生涯を閉じた。

参考サイト 「文明開化の科学者,矢田部良吉の生涯」矢田部良吉デジタルアーカイブ 国立科学博物館HP 岡田章子「スキャンダルの両義性」立教大学リポジトリ

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