操られた明智光秀!?「本能寺の変」の窮地を切り抜けた細川家との関係【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

しかしその容姿と頭脳の明晰さから、高貴なところの出身と思わせるところがありました。それくらい頭が良かったのです。

明智光秀像

彼の出自については、各記録書の断片的な内容をつなげていくことでたどるしかありません、そうして見ていくと、どうやら美濃の土岐氏の親類だったものの、牢人となったため朝倉義景のもとで十年とどまっていたらしいと分かります。

その後、朝倉家を出て細川家へ仕えました。興福寺の『多門院日記』では、荷物運びなどの下働きをしていたらしい記述があります。ただ、ここで家老からいじめを受けたため、信長に仕えることを希望するようになったとか。

それで、細川藤孝によって信長のもとへ送り込まれたのをチャンスと見て「転職」したのでした。光秀は信長に直訴して家来にしてもらい、細川家に戻らない旨は手紙で伝えたといわれています。

強みを活かす

もっとも、光秀と細川家が断絶したわけではありません。むしろ光秀は、もともと細川家から遣わされたエージェントとしての役割ときちんと果たしていきます。

光秀一族は見た目もよく、フロイスの『日本史』では、彼の子女は欧州の王族のようだと評されており、光秀自身も美男子だったと思われます。同時に、彼には周囲にいいところの出身だと思い込ませるほどの風格も備わっていました。

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