徳川家康、食い逃げを追及される!?おいしそうな地名「小豆餅(あずきもち)」の由来にまつわる二つの説を紹介

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徳川家康、食い逃げを追及される!?おいしそうな地名「小豆餅(あずきもち)」の由来にまつわる二つの説を紹介

徳川家康に由来?

静岡県浜松市には、「小豆餅(あずきもち)」という、何かおいしいものがありそうな町名の地域があります。この町名の由来は、実はかの徳川家康にあるとされています。

地名の由来にまつわる二つの逸話と、その真相を追っていきましょう。

まず有名な説として、徳川家康が三方ヶ原の戦いで敗走した折、ここで食い逃げをしそうになった事件が由来だとするものがあります。

徳川家康像(浜松城)

家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れましたが、逃げる途中に一軒の茶店に立ち寄って小豆餅を食べました。この時、家康は慌ててしまい小豆餅の代金を払うのを忘れたのです。

それで、怒った茶店の店員が家康を追いかけて代金を請求したというのです。よって、小豆餅を食べた場所が「小豆餅」となり、また店員に追いつかれた家康が代金を支払った地が銭取(ぜにとり)という地名になった、というのがこの説です。

戦死者を弔ったのが由来?

また、『浜松風土記』には別の説も見られます。慶長年間、浜松城主である堀尾信濃守忠氏の弟である高階武左衛門晴久が、三方原の茶店で小豆餅を食べました。

浜松城

しかし、その場で次々に奇妙な現象が発生したため、晴久はその場から逃げます。すると茶店の娘が追いかけてきて、逃げ続けると今度は大男が追いかけてきました。

彼がやっと町外れまで逃げてその話をすると、なんと「あんなところに茶店などない」と言われます。

後日、晴久が家来と共にその場所を訪ねるとそこには草が生い茂っており、しかも三方ヶ原の戦いで死んだ者たちの人骨が散乱していました。

そこで、晴久は人骨を集めて、小豆餅を供えて弔いました。これがもうひとつの説です。

三方ヶ原の戦いとの関係

小豆餅という地名の由来について、有名な二つの説をご紹介しましたが、どちらかが本当なのか、その真相ははっきりしていません。

ただ、少なくとも前者の「徳川家康食い逃げ説」は後世の創作の可能性が高いとされています。そもそも三方ヶ原の戦いが起きた時代は、その地域には水源があまりなく、そこで茶店を営業するのは難しかったはずです。

また後者の「戦死者弔い説」も、怪談が交ざっているため、これが本当だと断じるのも難しいと言えるでしょう。

有名な徳川家康の「しかみ像」。家康にまつわる逸話には後世の創作が非常に多い

ただ、研究者の間ではこの小豆餅の辺りを三方ヶ原の戦いの主戦場だったと論じる説もあることから、三方ヶ原の戦い戦死者の供養という二つの要素が、地名の由来に関係していることは十分考えられます。

そこで、三方ヶ原の戦いつながりで徳川家康の名前が使われて、愉快なエピソードとして創作されたのかも知れません。そう考えると、むしろ「食い逃げ説」の起源も「戦死者弔い説」にあることになります。

ちなみに、それでは先述した「銭取」という地名は何なんだ、という話になりますが、昔はこの辺りに山賊が出没し、通った人は彼らに銭を取られることからこの地名になったというのが真相のようです。

参考資料
磯田道史『日本史の内幕』2017年・中公新書
『静岡県民も知らない地名の謎』2014年・PHP文庫

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