「ルーツは?」「いつ姿を消した?」“武装僧侶”僧兵「興亡の歴史」! (3/4ページ)

日刊大衆

 一方、平安京の鬼門を守る鎮護国家の寺として比叡山に創建された延暦寺の僧兵(堂衆、大衆と呼ばれる)もやはり、寺じ 務む (寺院の事務)に携わる者が武装化していったことに起源がある。彼らはそれぞれ阿闍梨などの高僧に仕えていたが、やがて師匠の高僧の言うことを聞かず、里で脅しなどの悪事を働くようになったという(『源平盛じょう衰す い記』)。

 また、強訴の際には比叡山の麓に鎮座する日吉大社の神輿を奉じた。よく「大衆三千」などという表現をするが、延暦寺は常時、その程度の勢力を保っていた。

■織田信長らが出現して僧兵は一気に衰退した

 こうして同じようなメカニズムで平安時代にかけて各地で僧兵が誕生。興福寺や延暦寺の他にも園城寺(滋賀県大津市)や多武峯寺(奈良県桜井市)、金峯山寺(同吉野町)、根来寺(和歌山県岩出市)などが有名で、これら武力を持った寺同士の抗争も絶えなかった。

 中世(鎌倉、室町、戦国)を通じて栄えた僧兵だが、織田信長をはじめ、統一権力が出現すると、一気に衰退していった。信長は元亀二年(1571)九月に比叡山延暦寺を焼き討ち。興福寺の寺領も削減した。

 後に天下を取る豊臣秀吉も天正一三年(1585)、根来寺を焼き討ちしている。

 そもそも延暦寺と信長が対立した発端は、織田家による延暦寺領の横領にあり、寺やその経済基盤である所領を守るために誕生した僧兵たちも、織田家や豊臣家のような大勢力が現れると対抗することができず、その存在意義が失われていったのだ。

 結果、諸寺は統一権力から信仰を集めることで生き残りを図り、興福寺と春日大社も秀吉の検地に従い、合わせて領地が二万一〇〇〇余石と定められた。

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