「ルーツは?」「いつ姿を消した?」“武装僧侶”僧兵「興亡の歴史」! (2/4ページ)

日刊大衆

恵えみのおし美押勝か つ(藤原仲麻呂)が七六四年に孝謙上皇らに反乱した際、政府軍に協力した「諸寺の奴ら」がいたという(『続日本紀』)。

 この「奴」というのはいわゆる奴婢内、男性の奴隷をいい、武装していたことから政府軍に協力したとみられる。

 彼らはもともと農民だったが、政府の厳しい税の取り立てに耐え切れず土地を捨てて逃げ出し、奴隷として売買された者らと考えられている。

 当時の都だった奈良(平城京)には東大寺、興福寺、大安寺、法華寺などの大きな寺があり、諸寺に「墾田一千町」(『続日本紀』)ほかの土地が与えられた。それが寺の経済的基盤だった。

 しかし、「墾田」とあるように土地を耕すのに人手がいり、諸寺はそれを「奴」らにやらせた。しかも、当時は盗賊などが横行していたから、土地を拓いてコメや農作物を作り、それらの財を守るためには彼らも武装する必要があり、こうして僧兵が誕生するのだ。

 つまり、僧兵の起源は武装した「奴」だったとみられるが、僧兵がより大きな勢力となるために必要だったのが、寺に雇われて雑用に従事した「雑人」たち。やがて彼らが雑用から解放され、仏法を護持するという名目で武装化していったようだ。

 そこへ後に武士となる豪族の子弟らが加わった。たとえば、藤原氏の氏寺である興福寺と一体の関係にある春日大社(藤原氏の氏神を祀る)に土地を寄進し、その「神人」(下級の神職)となった豪族たちだ。その豪族(神人)らが興福寺の僧兵を兼ねた。

 こうして「大衆」(雑人)や「国民」(神人)と呼ばれる興福寺の僧兵らは寺の財産を守るという本来の役割以上の動きを示し始める。それが強訴(徒党を組んで訴えること)だ。一般的に僧兵の強訴の初めは寛治七年(1093)のことだとされる。

 春日大社の社領(近江国)で国司が神人に乱暴を働いたことが原因となり、興福寺の僧兵らが春日大社の神木を担ぎ出し、大挙して入洛。国司の罷免を訴えた。

 結果、朝廷は僧兵らの要求を受け入れ、国司は任を解かれ、土佐へ流罪となった。興福寺も春日大社も国家鎮護を担う重要な社寺であり、朝廷も彼らに従うしかなかったのだろう。

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