何故不平等な条約が結ばれたのか?密着!和親条約締結その瞬間【後半】 (1/3ページ)
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ペリーが締結した「下田条約」は、全部で13条ありましたが、その主な内容は、アメリカ人の移動可能範囲を下田より7里、箱館より5里四方に限り、武家・町家への立ち入りを禁じること、アメリカ人に対する一時的な休息所を了仙寺、玉泉寺に置き、米人基地は玉泉寺に置くこと、アメリカ人が鳥獣を狩猟することを禁じることなどが定められました。
なお、「下田条約」は他に1855年、1857年に結ばれたものもありますが、これらも“下田で結ばれた条約”ということから、同名の「下田条約」とされています。
ペリーはその後、琉球王国へも立ち寄り、通商条約を締結します。これにより、箱館、下田、琉球の3か所を太平洋側の寄港地として利用することができるようになりました。アメリカ側から見ると、日本列島に沿って、ほぼ等間隔に並んでいます。
一方、幕府側にとっては、ペリーと結んだのは、あくまで「和親条約」であり、この段階では、アメリカとの貿易は拒否することができました。ただ、下田・箱館にアメリカ船が出入りし、アメリカ人が暮らすことが認められました。
また、アメリカ船は、渡航に必要な物資を現地で購入することが赦されたので、通商条約締結に廃足りませんでしたが、アメリカにとって、日米間の貿易開始に、大きな布石を打つことができました。まさに、『日米和親条約』の締結は、今後の日本との貿易につながる大きな歴史的な転機となったのです。
『日米和親条約』『琉米修好条約』を締結したその後のペリーについては、以前Japaaanでもお伝えしてある通りです。
