教科書記載「日本史の常識」に異変「遣隋使はなかった説」の真相! (2/3ページ)
また、「日出ずる処の天子」で始まる有名な一節は『書紀』に記載されず、中国側の史料である『隋書倭国伝』(以下、『隋書』)に、倭(日本)の使節がもたらした国書として登場する。
その使節の到来を『隋書』では隋の年号でいう大業三年としており、西暦で六〇七年に当たり、その年を『書紀』でいう推古天皇一五年のことだと理解すると、そこに「小野妹子を大唐に遣わす」と記載されていても、派遣年が共通しているところから推古天皇の摂政である聖徳太子による「遣隋使」のことだと解釈されてきた。
しかし――。
(1)「小野妹子を大唐に遣わす」という一文をそのままの通りに解釈すると、聖徳太子が使節を派遣したのは唐であり、推古天皇一五年(607)のことではなかった。一〇年以上後の唐の時代の話だった。
(2)そうなると『隋書』の大業三年(607)に日本が隋に派遣した使節は、推古天皇と聖徳太子による使節でなかったことになる。つまり、「日出ずる処の天子」という国書を中国の皇帝に送ったのは両者とは別の人物だった。
以上の仮説が成り立つのだ。
それでは、この仮説が正しいとして、六〇七年の遣隋使は誰が派遣したのだろうか。手掛かりになるのは、倭の「多利思比狐」が隋の開皇二〇年(600)に派遣した使節のことが『隋書』に記載され、そこに倭国の風俗や風土として「阿蘇山あり」というくだりがあること。
つまり、飛鳥(奈良県明日香村)にある推古天皇の王朝とは別に、九州にも王朝が存在し、その王が隋へ使節を派遣したというのが以上の説の結論だ。通説は『隋書』が記す「多利思比狐」を聖徳太子とするが、この説では当然、別人物となる。
今のところ、明確にこの説を否定する証拠や解釈は現れていない。
しかし、中国の皇帝に後ろ盾になってもらわないと国を治めることができなかった五世紀の「倭の五王」の時代と違い、王権が定まった七世紀初めの時点で九州に
「日出ずる処の天子」という国書を中国皇帝に送れる別王朝が存在したとは考えにくい。
しかし、それなら、どうして『書紀』は「小野妹子を大、隋に遣わす」とストレートに記載しなかったのか。