徳川家康にとって「城」はどうあるべきだったのか?乱世終息のためのリスクマネジメント思想 (3/3ページ)

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どちらも、海の向こうから敵が攻めてくることを考えると城が必要なように見えるのですが、幕末まで築城が許されませんでした。これも、堅固な城を築くことで、反対に外国人が侵略の足掛かりにするのを危惧したのでしょう。

松前城

その一方で、西国の大名たちが反乱を起こした際に備えて、きちんとした城を築かせた例もあります。それが赤穂城龍野城で、家康は姫路城に譜代大名を据えて、その西隣に赤穂・龍野城を建てることで万が一の際の防衛ラインにしようとしたふしがあるのです。

こうしたところにも、当時のリーダーたる徳川家康が、「太平の世」を作るために工夫した痕跡が見て取れます。

参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

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