徳川家康にとって「城」はどうあるべきだったのか?乱世終息のためのリスクマネジメント思想 (2/3ページ)

Japaaan

関ヶ原の戦いの後、1603年(慶長8年)に家康は京都に宿泊用の城として二条城を造らせましたが、それが立派で大きすぎたため怒ったのです。

京都・二条城の唐門

家康いわく、城というのは敵から奪い取られるものなので、あまりに頑強だと今度は奪い返すのが困難になる、という理屈でした。

城は権力の象徴であり、立派で大きければ大きいほどいいという視点から考えると、この考えは全く正反対です。

しかし、今の時代のヒューマンエラー対策リスクマネジメントの観点から見ると、「最悪の事態が起きないようにする」よりも「最悪の事態が起きても対処しやすいようにする」ということになるので、これは理に適っているといえるでしょう。

反乱も侵略も「城なし」で防ぐ

徳川幕府は、戦国の気風が残る大名たちの力を可能な限り削ぎ落すため、武家諸法度新規の築城無許可での城の修繕などを禁止しています。有名な「諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事」という条文です。

おそらくこのルールの根底には、前述のような家康のリスクマネジメント思想もあったのでしょう。

この影響から、長きに渡ってお城を持てなかった大名もいました。それは北海道(蝦夷地)の松前氏と五島列島の五島氏です。

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