織田信長を支え続けた柴田勝家。その子供たちを一挙に紹介!【どうする家康】 (2/3ページ)
『寛政重脩諸家譜』によると、勝家には男児3人と女児1人がいたと言います。しかし全員養子であったため、勝家の血は引いていませんでした。
今回は勝家の子供たちについて紹介。果たしてそれぞれどんな人物だったのでしょうか。
勝家の長男・柴田勝敏(かつとし)生没年不詳
通称は父と同じ権六(ごんろく)を襲名しているので、恐らく家督を継がせるつもりだったのでしょう。
幼名は於国丸(おくにまる)、実家は不明(某氏)となっています。将来を嘱望されたでしょうが、16歳の時に京都で自害してしまいました。
時期や動機など詳細は不明ですが、父の滅亡に関連していたと考えられます(別説では、賤ヶ岳の戦いで羽柴方に捕らわれ、京都で処刑されたとも)。
勝家の次男・柴田勝政(かつまさ)弘治3年(1557年)生〜天正11年(1583年)没
通称は三左衛門(さんざゑもん)、元は佐久間盛次(さくま もりつぐ)の三男です。盛次は勝家の義兄(姉婿)であるため、勝政は甥に当たります。
正室として日根野高吉(ひねの たかよし。織部正)の娘を迎えますが、賤ヶ岳の戦いで討死してしまいました。享年27歳。
勝家の三男・柴田勝豊(かつとよ)生年不詳〜天正11年(1583年)没
通称は伊賀守(いがのかみ)。この官職は自称(官途名)です。
越前国丸岡城を預かっていましたが、やがて父と不和になって離反。羽柴秀吉に寝返りました。
しかし天正11年(1583年)4月16日、父に先立って世を去ります。何があったのでしょうか。
暗殺したのは父か、あるいは秀吉か……そんな事を考えてしまいますね。
勝家の長女・高城胤則室生没年不詳
勝家の家臣・中村文荷斎(なかむら ぶんかさい)の娘で、高城胤則(たかぎ たねのり。源次郎)に嫁ぎました。