織田信長を支え続けた柴田勝家。その子供たちを一挙に紹介!【どうする家康】 (1/3ページ)
勝家 権六 修理亮
織田右府につかへ、しばしば戦功あり。右府佐々木承禎及び浅井朝倉を伐て近江越前をたいらぐるのとき、勝家これに従ひ軍忠を励すにより、北国のをきてとして越前を領し、北庄の城に住す。右府生害の後近江国柳瀬にをいて相戦ひ、終に敗走す。太閤すすみて北庄の城をかこむ。四月二十一日勝家自殺す。室は織田備後守信秀が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百七十二 清和源氏 支流 柴田
織田信長(おだ のぶなが。右府)の重臣として数々の武勲を重ね、北陸攻略の任務を帯びていた柴田勝家(しばた かついえ)。
やがて天正10年(1582年)に信長が志半ばに横死を遂げると、織田政権の乗っ取りを企む羽柴秀吉(はしば ひでよし)と対立しました。
翌天正11年(1583年)に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れた勝家は、追い詰められて4月21日に北庄城で自害してしまいます。
この時、正室であったお市(信長の妹)も運命を共にしたのでした。
……ところでそんな柴田勝家には、どんな子供がいたのでしょうか。