【天正伊賀の乱】伊賀忍者の棟梁?織田信長に徹底抗戦した百地丹波の武勇伝【どうする家康】 (2/6ページ)

Japaaan

三重県伊賀市)の郷士・百地正永(まさなが)の子として誕生しました。

通称は新左衛門(しんざゑもん)、一説に諱(いみな。実名)は百地正西とも言うそうですが、読みは「まさにし」でしょうか。あるいは「しょうさい」かも知れません(ご存じの方がいましたら、出典ともどもご教示願います)。

丹波とは丹波守(たんばのかみ。国司)を意味しており、朝廷から正式に任官したものではない自称(官途名)です。

さっそく天正伊賀の乱における活躍を見て行きましょう。

鬼瘤越の軍将として、柘植三郎左衛門、副将尓は日置大膳亮、九月十六日乃未明に、松ケ島を打ち立ち、一千五百余騎の軍勢を引き具し、勢州榊原、満ヶ野辺の兵士を駆り立て、案内者丹具しありき、明けて十七日の未刻に、大峠、布引ヶ峯、鬼瘤越等の嶮しき道を凌ぎ、馬野口に発向す……

※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」

鬼瘤越(おにこぶごえ)から攻め込む大将は柘植保重(つげ やすしげ。三郎左衛門)、副将には日置大膳亮(ひおき/へき だいぜんのすけ)。9月16日の未明に1,500余騎の軍勢を率いて出陣しました。

明けて9月17日の未刻(ひつじのこく。午後2時ごろ)に数々の難所を越えて、馬野口に向かったのです。

……喰代村に百地丹波、百々某、田中氏……

……各々器具を引きしめ、得道具を所持して馳せ向ふ、彼等の従類郎徒には、なハ、鎌、竹鎗等を一様尓取持たせ、村勢雑兵をかり立て、数千騎を従へ、勇士等ハ馬野口に競ひ来り、勇みかゝつて待ちかけたり……

※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」

これに対する伊賀国衆の中から、喰代村を代表?して百地丹波や百々(どど)某、そして田中(たなか)氏が出陣。彼等の武器は縄や鎌、竹槍など貧相なものでしたが、自分たちの故郷を守るために気合いは十分。数千もの勢力に膨れ上がったのでした。

果たして決死の抗戦が実り、伊賀国衆は大勝利。柘植保重は討死、他の戦線においても総崩れとなって潰走します。

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