【天正伊賀の乱】伊賀忍者の棟梁?織田信長に徹底抗戦した百地丹波の武勇伝【どうする家康】 (5/6ページ)
エピローグ・伊賀国撫斬(なでぎり/ぶざん)の事
寄手の軍勢、去々年卯の秋、信雄卿を始め、武将のかたがた丹耻辱を與へつる其の遺恨深きに依て可、今般先年の欝憤を散せんと、所々の要害を破却しては焼き払ひ、神社仏閣を打ち壊り、僧侶男女の別ち奈く、根を断ち葉を枯らし、當るを幸ひに草を薙ぐ如く殺害しける程に、親の最後、子の向後如何と問ふべき方も奈し、運に任かせて近江路や、大和山城河内に落ち行き遁るゝ方もあり、紀の路の内に影を匿くし、或は伊勢より志摩に漂泊し、乞食と奈るもあり、四国中国にさ寿らひて互に行衛知らぬひの、筑紫に降る者も阿り、東関北陸山川の遠路を凌ぎ捕はれて、夫妻の別れと成るも阿り残る諸民討たれて死寿る輩は、一州の過半に及びたり……
※『伊乱記』巻之七「撫斬の事」
かくして終焉を迎えた天正伊賀の乱。しかし、悲劇はここからでした。
「「「一昨年の怨み、晴らさでおくべきか!」」」
惨敗を喫して恥をかかされた鬱憤ばらしとばかり、大虐殺を始めた織田軍。各所に築かれた砦などは片っ端から破却、神社仏閣も焼き払いました。また女子供や僧侶にいたるまで撫斬りにしたと言います。
伊賀者たちは散り散りとなって各地へ逃れ、四国中国果ては筑紫(九州)、北陸関東まで逃れたそうです。
大殺戮の結果、伊賀の人口は三分の一が喪われたとも、過半数が殺されたとも伝わります。