【天正伊賀の乱】伊賀忍者の棟梁?織田信長に徹底抗戦した百地丹波の武勇伝【どうする家康】 (3/6ページ)
伊賀の国士等、此の度の一戦に、信雄卿を初め、郎従名将の歴々を、諸方に追ひ払ひ、或ハ討ち取り、其の外雑人原を討ち取る事、其の数を知らず、物乃見事に打ち勝ちければ、郷士の手柄、国民の本望、いかでか詞に述べ盡し得んと、大悦する事限りなし……
※『伊乱記』巻之二「伊賀国民栄花の事」
【意訳】伊賀の国衆は信雄はじめ名だたる武将たちを追い払い、あるいは討ち取り、ほかにも雑兵などの討死は数えきれないほど。ものの見事に勝利を収め、郷士らは大手柄。伊賀の領民は言葉に尽くせぬほどの大喜びです。
サブタイトルにもあるようにこれが伊賀の国民(くにたみ)にとって、絶頂の栄華でした。
柏原城の戦い(第二次天正伊賀の乱)
しかし、伊賀の栄華も長くは続きません。ついに天正9年(1581年)に信長が本気で攻めて来たのでした。
百地丹波はこの時、柏原城(三重県名張市)に駆けつけ、城主の瀧野吉政(たきの よしまさ。十郎)と共に立て籠もります。