「本能寺の変」で自害決意から一転、徳川家康「替え玉サバイバル作戦」 (2/4ページ)
実は史料上の矛盾点から、明智勢らの目を欺くために家康が替え玉を立てた可能性がうっすらながら浮上してくるのだ。
家康一行が上方から伊賀へ至ったとされるルートは二通りの候補があり、ここでは仮にそれぞれ北廻りルート、南廻りルートとしておこう。
前者は飯盛山を経て山城の宇治田原(京都府宇治田原町)、近江の信楽(滋賀県甲賀市)から伊賀へ入り、柘つ植げ(三重県伊賀市)を経て鈴鹿山脈にかかる加太越えで伊勢に至るコース。
後者のコースだとまず、堺から東へ向かい、河内との国境にある竹内峠を越えて大和に入る。そこから国中(奈良盆地)を横断する形で東へ進み、八や木ぎ(奈良県橿原市)から南下して明日香村の芋い もケが峠とうげを通って吉野方面へ。そして大和上市(同吉野町)へ出て、そこからまた東へ進み、高見峠を越えて北上し、伊賀へ至る大和越えのルートだ。
この二ルートのうち、通説は『石川忠総留書』(以下『留書』)によって北廻りを採用している。
というのも、『留書』の筆者忠総は、大久保忠隣 (のちの小田原城主)の子息で石川康親の養子となった武将。家康の重臣石川数正や忠総の実父忠隣らが家康の伊賀越えに随行し、『留書』には随行した家臣の名やルート、堺からの里程(距離)まで記され、一部、他の史料と差異があるものの、北廻りルートがこの『留書』の記述の信頼性によって確定し、通説となったのだ。
一方、『当代記』や『大和記』などの史料に南廻りルートが記されていながら、以上の理由で北廻りが通説化していった。
ところが、上島秀友氏の指摘によって看過できない問題のあることがわかった(『伊賀越えの真相-家康は大和を越えた』参照)。というのも、天正一〇年六月付の「東照宮御判物」の存在が明らかになったからだ。
東照宮(家康)の朱印や花押などが捺お された文書をそう呼び、現存する文書は「記録御用所本」(江戸幕府が諸家から提出させた古文書)の写しで
「古文書の忠実な書写」とされているもの。