徳川家康の終の棲家「駿府城」に伝わる「異形のモノ」と七不思議【前編】
徳川家康が、晩年(66〜75歳)を過ごした「駿府城」。現在は城があった場所は「駿府城公園」として整備されています。近年の発掘調査では「天守台」の大きさが日本最大だったということが判明しました。
実はその駿府城には、謎の異形のモノが出現した話や七不思議が伝わっています。今回は、現代にも伝わるそれらの話をご紹介しましょう。
家康が晩年を過ごした駿府城JR静岡駅からほど近い場所に広がる「駿府城公園」。徳川家康が天正13年(1585)に築城、晩年を過ごした駿府城の遺構がある公園です。
現在では、東御門・巽櫓(たつみやぐら)・坤櫓(ひつじやぐら)が復元され、東御門・巽櫓では公園内で発掘された資料の展示や、徳川家康が幼少期に過ごした「竹千代手習いの間」などを閲覧できます。
また、日本庭園と茶室を備えた「紅葉山庭園」、発掘調査で出現した日本最大規模の慶長期天守台など見どころがたくさん。
家康の面影を偲びながらのんびり散策をたのしめますが、実はこの駿府城には不可思議な話がいくつも伝わっているのです。
駿府城に謎の「化け物」が現る何かが起こりそうな夜空に突然四角い月が現れる……(写真:photo.ac)
江戸時代に泰鼎(はた かなえ)という漢学者がいました。その人の随筆「一宵話(ひとよはなし)」に、家康が化け物とも妖怪ともはたまた宇宙人ともつかない「異形のモノ」に遭遇しかけた……という話が残されています。
慶長14年(1609年)の3月。「大御所」となった家康は駿府城にて日々を送っていました。そんなある夜。墨を流したような真っ黒な夜空に「四角い月」が現れ、「不吉な前触れかもしれぬ」と騒ぎになりました。
その後4月4日の朝。駿府城の庭に、子どものような大きさの手足の指がない肉の塊、まるで「肉人」とも呼ぶべき異形のモノが立っていたそう。家臣たちは家康に「いかが取り計らいましょうか」と問うたところ、家康が「人のいない場所に追い払え」と命じたので追い払ったそうです。
異変を予知するモノなのか?権力を得られる「仙薬」か?こんな感じの「異形のモノ」だったとも……水木しげるロード「ぬっぺっぽう」のブロンズ像(写真:wiki)
その顛末を聞いたある者が、「それは惜しいことをした。あれは『白澤図』(※)に書いてある『封(ほう)』というもので、食べれば権力や武力が増す「仙薬」だ。なぜ家康公に食べさせなかったのだ」と惜しがりました。
※白澤図:中国の伝説上の帝王・黄帝が神獣・白沢の言葉を記録し、あらゆる鬼神を撃退する知識が書いた書物
この話は、「一宵話 巻之二「異人」」に記載されています。
泰鼎は学者らしく、「家康や家臣は、そのような怪しげなものを食べてまで強くなるのは潔しとせず、その謎の生物を放逐したのだろう」とことの顛末をまとめているそうです。
徳川幕府の公式記録「徳川実紀」にも記載がこの件は、徳川幕府の公式記録「徳川実紀」にも、「手足の指ない浮浪者が城内に現れたので追い出した」との記載があるとか。
中国では、異変の起こる前兆として異形の者が出現するという言い伝えがあるそうです。
どうやって、異形のものが警備の厳しい駿府城の庭に入り込むことができたのか、そして指を失った裸の人だったのか、異変を伝える宇宙人だったのか……
【後編】では、この「異形のモノ」の謎や、駿府城の七不思議をご紹介しましょう。
鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「ぬつへつほふ」(写真:wiki)
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