お江戸の火事対策。どのような消防組織が作られたのか?【その1】
「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があまりにも有名ですが、江戸時代の中心地・江戸では確かに火事が多発していました。また、大火と呼ばれるような悲惨な火事もありました。
そこで、今回の記事では、江戸の火事対策として、まずはどのような消防組織が作られていったのかを詳しくご紹介していきたいと思います。
「火消」の制度がもうけられる江戸時代の初めごろは、まだ消防がきちんと組織化されていませんでした。しかし、度重なる火事を経験し、「火消(消防組織とそのメンバーを指します)」の制度がもうけられていきました。
1629年(寛永6年)、徳川幕府3代将軍・徳川家光によって「奉書火消(ほうしょびけし)」が作られます。しかし、これは火事が発生したあとに火消役が決められるというもので、非常時に求められるスピードが欠けていました。
まずは江戸城や武士の家を守る「奉書火消」を改善し1643年(寛永20年)に作られたのが「大名火消」です。これは徳川家光が大名16人を指名してできた組織で、江戸城や武士の家を守ることが目的でした。
大火をきっかけに、今の消防署のルーツが生まれた江戸の三大大火の一つに数えられる「明暦の大火」は、1657年(明暦3年)に発生。江戸の町は焼け野原になりました。非常に大きな被害が出たことから、4代将軍・徳川家綱は「定火消(じょうびけし)」という組織を作ります。
これは、火消役が火消屋敷に寝泊まりし、火事が起きたらすぐにかけつけるというものでした。火消屋敷は、現在の消防署の原型ともいわれています。
町人の火消も組織される江戸の一般の人々が住む町人エリアのきちんとした火消組織は、1718年(享保3年)に「町火消」が作られたことに始まります。これは、町奉行の大岡越前守忠相によるものでした。
町ごとに火消人足と火事の際に出動する義務を課したものです。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに48組となる)と、東を担当する本所・深川の16組が設けられました。ちなみに、「町火消」の人数は1万人以上だったとも言われています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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