徳川家を出奔した石川数正(松重豊)、秀吉に仕えてその後どうなった?【どうする家康】 (2/5ページ)

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十三年十一月数正かつてより岡崎の留守たるのところ、ゆへありて岡崎を出奔し、大坂にいたりて太閤につかふ……

※『寛政重脩諸家譜』巻第百二十 清和源氏(義時流)石川

天正12年(1584年)、小牧・長久手の合戦で緒戦の勝利を収めた家康に、秀吉との和睦を進める場面から見ていきましょう。

「秀吉は今や天下の半分を支配し、多くの将兵を抱えております。一方、当家の勢力はその半分にも足りません。さらに北の上杉景勝・東の北条氏政(駿河太郎)が揃って敵に回れば、とても生き延びることはできないでしょう。今は和睦して今後の策を講じるべきです」

数正の進言に家康は腹を立て「我ら寡兵なれども、何ゆえ敵の大軍を恐れることがあろうか」と強がります。

しかし結局は秀吉と和睦、人質として於義伊(後の越前中納言秀康)を秀吉の養子に送り出しました。

この時に数正は息子たち(石川康長・石川康勝。そして末子の石川半三郎?)と共に大坂へ赴き、息子たちはそのまま豊臣家に仕えます。彼等も実質的に人質です。

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一度は戻ってきた数正ですが、やがて天正13年(1585年)11月に故あって岡崎から出奔。家康を見捨てて、秀吉に仕えるのでした。

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