日本全国で最も多く祀られる神様『八幡神』はいったい何者なのか!? (3/4ページ)

日刊大衆

 おそらく、葛野に進出した秦氏の宗家や九州に残った一族が大仏建立を援助したのだろう。結果、八幡神に朝廷から一品位階のほか、封戸や位田(報酬や領地)が与えられた。

 その後、宇佐八幡神託事件などもあって名をあげていった八幡神を重視し、天皇家や朝廷は、やがてその宮司にそれまでの氏族(秦氏)以外の人物をあて、八幡宮をコントロール下に置こうとしたとみられる。

 というのも信頼できる一次史料で最も早く八幡神が応神天皇の神霊になったと確認できる弘仁二年(821)当時、朝鮮半島を支配していた新羅との外交関係がこじれ、国際的な緊張関係が一気に高まっていたからだ。

 一方、あくまで神話上の話だが、神功皇后は妊娠中に朝鮮半島へ出兵し、高句麗と百済、新羅を服属させ、その際に妊娠していた子が応神天皇だとされる。こうしてこの母子は三韓征伐の英雄となった。

 平安時代の初め、九州北部という外敵に睨みを利かせられる場所に鎮座していた八幡神は当時、すでに外敵から国を守るという性格が顕著になっていたとみられるから、平安時代に入り、そこに応神ファミリーの神霊がとって変わることによって「敵国降伏」の要素はより強くなった。

 ちなみに、鎌倉時代にモンゴル軍が襲来した際(元寇)、筥崎宮の神門にそのまま「敵国降伏」の扁額が掲げられていた。こうして八幡神は「武神」となっていったとみられる。

■「八幡信仰」はなぜに全国に広がったのか!?

 平安時代の初めに仏教と習合(合体、融合)し、八幡神は「八幡大菩薩」と称した。大仏建立の際に援助を惜しまなかった八幡神は東大寺に迎えられ(それが現在の手向山八幡宮)、全国の寺院も守護神として境内に八幡神を祀るようになった。

 さらには平安時代末に八幡神を武神と仰ぐ武士が台頭し、とりわけ鎌倉に武家政権が誕生すると、八幡大菩薩を崇拝する風潮が高まり、地頭となった武士らが領地に鎮守の社として八幡神社を建立していくのだ。

 こうして全国に祀られた八幡神は今も、災害・病気などの「敵」から人々を守り続けてくれているのだ。

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