豊臣秀吉政権「天下六人の大名」の一員・佐竹義宣「徳川家康に肩を並べた理由」 (2/4ページ)
こうして豊臣政権下の大名となり、八月一日、義宣は秀吉から本領安堵の朱印状を賜った。その朱印状にはもともと目録がつき、そこに安堵された所領のすべてが書かれていたと考えられるが、残念ながら現存していない。
ただし、常陸南部には秀吉の命に服せず、かつ、小田原に参陣しなかった水戸城の江戸氏や府中城(石岡市)の大だ い掾じょう氏がいて、彼らの所領も佐竹領に含められていたようだ。というのも、その後、義宣は江戸氏と大掾氏らを滅ぼし、常陸国を統一したからだ。秀吉の惣無事令に反した動きに見えるが、秀吉の朱印状で彼らの領地も佐竹領と見なされ、いわば天下人のお墨つきを得ていたからと考えられる。
こうして義宣は新しい常陸の中心を水戸に据えて、そこに居城し、五五万石近い所領を得たのである。
ところが、そんな義宣が一度だけ窮地に陥ったことがある。秀吉が亡くなる前年の慶長二年(1597)、義宣配下の宇都宮国綱が改易される事件が起きた。国綱は、豊臣政権の奉行職にあった浅野長政の次男(三男の説もある)を養子にするか否かで揉め、長政が秀吉に讒言した結果とされる。このとき義宣の所領の一部も召し上げられそうになった。
ところが、三成がその処分撤回に動いたらしく、義宣が太田城で隠居している父義重に宛てた書状から、「浅野弾正(長政)が(宇都宮領内に)検使を送ったので気づかれないよう速やかに上洛すべき」という三成からの指示が届いたという。
豊臣家の窓口だった三成とはもともと昵懇な関係だったと考えられるが、このことで彼への信頼は一気に深まったとみられ、それが秀吉の死後、義宣の行動を制約するようになった。慶長四年(1599)閏三月には、俗にいう「武断派諸将(福島正則や加藤清正らアンチ石田派)の三成襲撃事件」が起きた。三成が密かにその対策のために大坂から伏見へ移動した際、『慶長見聞集』には、武将らの襲撃を警戒してか、三成を女の乗り物に乗せて偽装し、義宣が警護して伏見へ向かったとある。