豊臣秀吉政権「天下六人の大名」の一員・佐竹義宣「徳川家康に肩を並べた理由」
豊臣政権下で徳川、毛利、上杉、前田、島津とともに「天下六人の大名」の一人に数えられたのが佐竹氏。江戸時代の著名な学者・新井白石が著書の『藩翰譜』でそう書いている。徳川は家康、毛利は輝元、上杉は景勝、前田は利家、島津は義弘と、それぞれの大名家が、いずれもドラマでいう“主役級”の武将を輩出しているのに比べると、佐竹氏の当主・義宣には脇役的な印象がつきまとう。
その義宣の時代、石高(五四万五八〇〇石)で全国の諸大名の中で上位に位置しているのは事実だが、石高で義宣を上回る伊達政宗や宇喜多秀家は、この豊臣政権下の「天下六人」から漏れてしまっている。
白石が生きた江戸時代に、なぜ義宣が家康らに肩を並べる大名とされたのだろうか。
佐竹氏は鎌倉時代から続く名門で常陸国の北部に割拠し、南北朝、室町、戦国と各時代を生き抜いてきた。
義宣は元亀元年(1570)に太田城(茨城県常陸太田市)で生まれ、秀吉が天下をほぼ掌中にした天正一四年(1586)、一七歳で家督を継いだ。
彼が家督を継いだ当時、北には南奥州を統一した伊達氏、南には関八州(関東全域)の完全制覇を狙う小田原の北条氏がいて、佐竹家は南北から圧迫を受けていた。
そこへ朗報となったのが秀吉の「関東奥羽惣無事令」だ。天下をほぼ手中にした秀吉は、天下を従える関白として関東と奥羽の諸将に停戦命令を発したのである。
当時、関東奥羽諸将と豊臣家との窓口を石田三成が担い、秀吉が出した書状には「(惣無事令に)違犯したら成敗いたす」という強い意思が伝えられていた。しかし、伊達や北条はその令に服さず、伊達はギリギリのところで秀吉に恭順の意を示したものの、北条は文字通り秀吉の「成敗」を受けることになった。
北条は秀吉の大軍の前に降伏するが、その少し前、義宣は天正一八年(1590)五月に小田原城を囲む秀吉に謁見し、三成ともに小田原城の支城である武蔵国忍城(埼玉県行田市)を攻めている。
こうして豊臣政権下の大名となり、八月一日、義宣は秀吉から本領安堵の朱印状を賜った。その朱印状にはもともと目録がつき、そこに安堵された所領のすべてが書かれていたと考えられるが、残念ながら現存していない。
ただし、常陸南部には秀吉の命に服せず、かつ、小田原に参陣しなかった水戸城の江戸氏や府中城(石岡市)の大だ い掾じょう氏がいて、彼らの所領も佐竹領に含められていたようだ。というのも、その後、義宣は江戸氏と大掾氏らを滅ぼし、常陸国を統一したからだ。秀吉の惣無事令に反した動きに見えるが、秀吉の朱印状で彼らの領地も佐竹領と見なされ、いわば天下人のお墨つきを得ていたからと考えられる。
こうして義宣は新しい常陸の中心を水戸に据えて、そこに居城し、五五万石近い所領を得たのである。
ところが、そんな義宣が一度だけ窮地に陥ったことがある。秀吉が亡くなる前年の慶長二年(1597)、義宣配下の宇都宮国綱が改易される事件が起きた。国綱は、豊臣政権の奉行職にあった浅野長政の次男(三男の説もある)を養子にするか否かで揉め、長政が秀吉に讒言した結果とされる。このとき義宣の所領の一部も召し上げられそうになった。
ところが、三成がその処分撤回に動いたらしく、義宣が太田城で隠居している父義重に宛てた書状から、「浅野弾正(長政)が(宇都宮領内に)検使を送ったので気づかれないよう速やかに上洛すべき」という三成からの指示が届いたという。
豊臣家の窓口だった三成とはもともと昵懇な関係だったと考えられるが、このことで彼への信頼は一気に深まったとみられ、それが秀吉の死後、義宣の行動を制約するようになった。慶長四年(1599)閏三月には、俗にいう「武断派諸将(福島正則や加藤清正らアンチ石田派)の三成襲撃事件」が起きた。三成が密かにその対策のために大坂から伏見へ移動した際、『慶長見聞集』には、武将らの襲撃を警戒してか、三成を女の乗り物に乗せて偽装し、義宣が警護して伏見へ向かったとある。
その後、会津(福島県会津若松市)の上杉景勝が謀叛の罪で徳川家康率いる軍勢の成敗を受けることになったとき、上杉に佐竹勢が加勢するという密約が交わされたという。
■家康を江戸に釘付けが高い評価につながった
家康が軍を率い、会津を目指して上方を発った隙に三成らが上杉勢と呼応する形で挙兵しているから、上杉に加担することは、義宣が三成方(西軍方)となったことを意味する。
慶長五年九月一五日に関ヶ原(岐阜県)で家康の東軍と三成の西軍が衝突する一ヶ月ほど前から武将間の書状で「景勝、佐竹一味たるべく候」と密約の存在が話題になっていた。
会津へ進軍中の家康が下野国(栃木県)まで行って三成らの挙兵を知り、Uターンして西へ軍勢を返すことになったものの、八月五日に江戸に戻ってしばらく動かなかったのは、上杉との密約説が囁かれる佐竹勢に背後を衝かれないためだったとみられる。
一方、義宣は重臣や父の反対があり、結局は上杉との密約を捨て、東軍方に与く みすることになったが、そうして佐竹勢の脅威がなくなって家康が九月五日に江戸を発つまで、ほぼ一ヶ月間、釘付けにした形だ。
ところが、西軍は関ヶ原で大敗し、三成らは処刑された。その二年後、今度は義宣にも沙汰が下り、秋田への転封を命じられ、石高は二〇万五八〇〇石へ減額された。なぜ義宣への沙汰が遅れたのだろうか。
まず最後の最後になって義宣は僅わずかながらも、上田城(長野県)を攻める徳川秀忠(後の二代将軍)の軍勢に兵を送り、形としては東軍方となったこと。
また、それまでは徳川方の史料(『正西聞見集』)に「佐竹義宣は(東軍・西軍の)どち方とも見えず、水戸に引き籠もりおられ候」とある通り、家康も密約の証拠をなかなか掴めず、二年かけてようやく見つけ出したとみられること――以上の理由が考えられる。『藩翰譜』で新井白石は「(義宣は)どうにかして三成の恩に報いようとした」と書いており、敗者を讃え、かつ、義を重んじる江戸時代人の気質からいって、「神君」として崇められている家康を江戸に釘付けにした義宣の功が高い評価を得たのではなかろうか。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。