豊臣秀吉政権「天下六人の大名」の一員・佐竹義宣「徳川家康に肩を並べた理由」 (1/4ページ)
豊臣政権下で徳川、毛利、上杉、前田、島津とともに「天下六人の大名」の一人に数えられたのが佐竹氏。江戸時代の著名な学者・新井白石が著書の『藩翰譜』でそう書いている。徳川は家康、毛利は輝元、上杉は景勝、前田は利家、島津は義弘と、それぞれの大名家が、いずれもドラマでいう“主役級”の武将を輩出しているのに比べると、佐竹氏の当主・義宣には脇役的な印象がつきまとう。
その義宣の時代、石高(五四万五八〇〇石)で全国の諸大名の中で上位に位置しているのは事実だが、石高で義宣を上回る伊達政宗や宇喜多秀家は、この豊臣政権下の「天下六人」から漏れてしまっている。
白石が生きた江戸時代に、なぜ義宣が家康らに肩を並べる大名とされたのだろうか。
佐竹氏は鎌倉時代から続く名門で常陸国の北部に割拠し、南北朝、室町、戦国と各時代を生き抜いてきた。
義宣は元亀元年(1570)に太田城(茨城県常陸太田市)で生まれ、秀吉が天下をほぼ掌中にした天正一四年(1586)、一七歳で家督を継いだ。
彼が家督を継いだ当時、北には南奥州を統一した伊達氏、南には関八州(関東全域)の完全制覇を狙う小田原の北条氏がいて、佐竹家は南北から圧迫を受けていた。
そこへ朗報となったのが秀吉の「関東奥羽惣無事令」だ。天下をほぼ手中にした秀吉は、天下を従える関白として関東と奥羽の諸将に停戦命令を発したのである。
当時、関東奥羽諸将と豊臣家との窓口を石田三成が担い、秀吉が出した書状には「(惣無事令に)違犯したら成敗いたす」という強い意思が伝えられていた。しかし、伊達や北条はその令に服さず、伊達はギリギリのところで秀吉に恭順の意を示したものの、北条は文字通り秀吉の「成敗」を受けることになった。
北条は秀吉の大軍の前に降伏するが、その少し前、義宣は天正一八年(1590)五月に小田原城を囲む秀吉に謁見し、三成ともに小田原城の支城である武蔵国忍城(埼玉県行田市)を攻めている。