江戸で「越後屋」創業から350年“三井中興の祖”三井高利の生涯 (3/4ページ)
なお、この時代、江戸で呉服は作られておらず、京の西陣で商品を仕入れる必要があり、どの呉服商も京に仕入れ店を設けていた。
高利は松坂にいながらも手紙で息子たちに細かな指示を与えていたことが分かっている。
特に高利は現在でいう就業規則を定め、手代らに厳守させた。賭け事や遊郭遊びなどはもちろん、怪しげな買い物をすることまで禁じた。
また、注目すべきは、傷んだ商品については安売り処分(現在でいう“訳あり商品”の特売)を実施していたこと。
こうして開業の一年後にして売り上げは、先に江戸で成功していた「三井釘抜家」の店(長兄の店)のそれを上回った。
こうして延宝四年(1676)には本町二丁目にも出店し、この頃、例の新商法を始めたようだ。この新商法は高利の叔母の嫁ぎ先で松坂の商家(屋号は伊豆蔵)で試みられていたもの。幼少期に彼が、それを巧みに学び取っていたといわれる。
しかし、越後屋の繁栄は同業者からの妬みを買い、手代への嫌がらせなどの他、呉服屋間の取引ができなくなり、一時、孤立化した。
■「イージーオーダー」も当時すでに行っていた
そんな騒動の最中の天和二年(1682)に大火が起こり、本町界隈は灰燼に帰し、それを機に越後屋は翌年、現在の日本橋三越本店がある駿河町へ移転。
ほぼ同時に江戸市中へ「呉服現金安売り掛け値なし」の引ひ き札ふだ (チラシ)を配り、新商法が軌道に乗った。
元禄元年(1688)に刊行された井原西鶴の『日本永代蔵』にも、この越後屋が登場している。
それによると、越後屋は一日一五〇両を売り上げ、当時、一反単位の取引だった常識を覆して「切り売り」にまで手を出し、さらには即座に仕立てて渡すイージーオーダーまで行っていたことが確認できる。