「上杉景勝 謀反の意あり」徳川家康の警戒心から始まった会津討幕【どうする家康】

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「上杉景勝 謀反の意あり」徳川家康の警戒心から始まった会津討幕【どうする家康】

1600(慶長5)年2月10日、上杉景勝(うえすぎかげかつ)は神指城(こうざしじょう・会津若松市神指町)の築城を直江兼続(なおえかねつぐ)に命じました。兼続は、弟の大国実頼(おおくにさねより)を作事奉行に任命すると、3月から大規模な工事を開始。その計画は、神指村など13カ所の村々を強制的に移転させ、新しく城下町を作るということでした。

上杉景勝(米沢市上杉博物館,wikipediaより)

この計画は直ちに家康の知るところとなり、不穏な動きとして、必要以上に家康を刺激してしまいました。

加えて、景勝の重臣・藤田信吉が寝返りしたことが、さらに景勝の立場を悪くしました。 会津から逃亡した信吉は、3月23日に江戸に到着し、徳川秀忠と面会。景勝に謀反の疑ありと、報告したのでした。景勝謀反の情報に関しては、以前から景勝の後に越後に入部した堀秀治からも寄せられていました。

1598(慶長3)年6月、秀治が越後に入部した際、次の領主に残しておかなければならなかった分の米などは持ち去られ、以後秀治は財政難に苦しむこととなり、問題視されていました。

秀治の家老であった堀直政は、上杉家の不穏な動きを報告し、家康に「景勝謀反の意あり」とします。そのときの根拠となったのが、全国から名のある浪人を召し抱えたこと、人夫約8万人を動員して神指城を築城したこと、弓矢・鉄砲の武具を準備したことの3点でした。

その後、家康は何度も景勝に上洛を促しますが、景勝はそれに応じません。1600(慶長5)年4月14日、直江兼続は西笑承兌(さいしょうじょうたい)という禅僧を通して、家康に上洛のできない旨を書状で知らせました。これが「直江状」です。

この文章の内容が、挑発的な文言だったため、家康が会津征伐を決意したといわれています。

直江兼続(米沢市上杉博物館蔵,wikipediaより)

ただ、「直江状」は、原本がなく、以前から真贋論争がありました。現在では、後世、良く知った人物による創作なのでは、という説が有力となっています。

一方で、もともと五大老には、在京して秀頼に仕える義務がありました。ところが、景勝がその義務を一方的に放棄。このことから考えると、仮に直江状がなかったとしても、家康が景勝を討伐することは避けられなかったのではないでしょうか。

結局、神指城は、完成せず。現在も幻の城となっています。

面積は鶴ヶ城の約2倍の55ヘクタールだと言われ、完成すれば奥州を代表する巨大城郭となるはずでしたが、現在では完成途中の二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。

神指城跡 アクセス

福島県会津若松市神指町高瀬
バス・・・路線バス「神指黒川」下車、徒歩15分
車・・・磐越自動車道 会津若松ICより約10分

参考:

宮本義己 『歴史群像デジタルアーカイブス <関ヶ原合戦>合戦前夜! 豊臣政権崩壊と上杉攻め』2015 学研 「神指城跡」会津若松観光ナビ

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