明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【前編】~「徴兵制」施行まで~ (2/3ページ)

Japaaan

これが実話なのかどうかは不明ですが、いずれにせよ、武士の中でも最下層に近い身分だったことが、彼を倒幕と明治維新に駆り立てた原因の一つになったのは間違いないでしょう。

松下村塾から奇兵隊へ

そんな彼がのし上がるきっかけになったのは、かの松下村塾で吉田松陰の門下に入ったことでした。

山県はもともと1838(天保9)年、長門国萩城下川島庄の生まれで、21歳の時には藩から京都へ派遣されて尊王攘夷思想の洗礼を受けています。そして藩に帰ってきてから久坂玄瑞の紹介で松下村塾へ入門したのです。

彼が塾生だった期間はごく短いものでしたが、吉田松陰からはかなり強く影響を受け、生涯に渡って師と仰いでいたといいます。

こうした縁もあって、山県は志士たちと行動を共にするようになりました。さらに奇兵隊の幹部にもなり、軍勢を率いて倒幕運動にあたります。1864(元治元)年と1866(慶応2)年の長州戦争、さらには戊辰戦争でも活躍しました。

奇兵隊時代の山県(Wikipediaより)

この、奇兵隊からスタートした「軍人」としての経験と知見が、その後の日本での近代的軍政づくりへとつなかっていきます。

兵部大輔へ

さて、1868年に明治維新が達成され、日本に新たな軍隊を創設しようとしたのは大村益次郎です。彼も幕末期に長州藩に出仕し、長州征伐と戊辰戦争で指揮を執った優秀な軍人政治家でした。

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