寺はもともと「別の名前」だった!?“奈良の大仏”東大寺の「秘密」 (2/4ページ)
やはり、聖武天皇が基親王の病気回復のために刻ませた観音像の一体を安置する堂だったとみられる。
一方、現存していないものの、やはり法華堂の近くに千手堂(本尊は千手観音)という堂舎もあった。
つまり聖武天皇が我が子の病気回復を願って造らせた観音像を、その皇子の死後、建立した寺に安置したことになり、東大寺のルーツは、法華堂などの堂舎が連なる若草山西せ い麓ろ くに誕生した一大観音霊場だったといえる。
■消えた丈六像の謎
大仏のイメージが強い東大寺のルーツが、このように観音霊場にあったわけだが、その金鍾寺がすぐさま東大寺になったわけではない。
天平一四年(742)の太政官符(最終ページコラム参照)によって、「金光明寺」に改称されていることが分かる。
その前年、聖武は詔みことのりを発し、諸国の国府(現在でいう都府県庁)近くに国分寺を建立させた。本尊には高さ丈じょう六ろ く(一丈六尺=約四・八五メートル)の釈迦如来像と七重塔に「金光明経」を納めたので、国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」という。
仏教によって国を守るのが建立目的で、このとき金鍾寺は大和国の国分寺である「大養徳(当時は大和をそう表記した)金光明寺」となった。
国分寺は新たに建立するのが原則だったが、大和国だけが既存の金鍾寺を転用したのは、「山房」と呼ばれていた設立当初から、僧たちに国家の安寧を祈らせており、国家鎮護の土台がすでにあったからだろう。
ところで、東大寺が「大養徳金光明寺」である以上、金堂(本堂)に丈六の釈迦如来像がなくてはならないが、現存しない。その消えた丈六像について元東大寺別当の森本公誠氏は、まず現在の大仏殿跡近辺が国分寺時代の金堂跡だと推定し、そこにあった銅造の丈六像がやがて大仏造立用の銅に転用された可能性に触れている(『東大寺のなりたち』参照)。