寺はもともと「別の名前」だった!?“奈良の大仏”東大寺の「秘密」 (3/4ページ)
■東大寺の誕生
天平一二年(740)、聖武天皇が難波宮(大阪市)行幸の際に河内の智識寺(柏原市)で毘盧遮那仏を礼拝し、それより大きな像(大仏)の造立を思い立ち、三年後、そのための詔を発したことで「大養徳金光明寺」の運命は大きく変わる。
天平一九年(747)九月、いよいよ東大寺で大仏(大毘盧遮那仏)の鋳造が始まり、「東大寺」という名が史料上初めて確認できるようになる。
「平城京の東にある大きな寺」という意味だが、その名は大仏鋳造とともに現れ、その後、造東大寺司という政府の組織によって伽藍が整えられてゆく。こうして金鍾寺から大養徳金光明寺、さらに大仏の鋳造とともに「東大寺」へと転身し、現在に至っているのだ。
■大仏造立を巡る天皇夫妻の確執
聖武天皇が大仏建立の詔を発したのは近江の紫香楽宮(甲賀市)。当時、都は平城京ではなく、恭仁京(京都府木津川市)にあり、紫香楽はその離宮だった。聖武は当初、その紫香楽に大仏殿を建立する予定だった。事実、聖武が大仏の詔を発した翌天平一六年には大仏の骨組みとなる体骨柱(塑像の芯柱)を立てる儀式が紫香楽で行われた。
ところが、その翌天平一七年に入ると、紫香楽宮周辺の山々でしきりに山火事が起こり、続けざまに美濃で起きた地震の余震が相次いだ。
こうしてその年の五月に都は平城京に戻され、前述の通り、その二年後に東大寺で大仏の鋳造が始まる。
ところが、歴史学者の飯沼賢司氏によると、「紫香楽周辺での山火事の背後には光明子の影が見え隠れ」しているという(『日本古代の交通・交流・情報2』参照)。光明子というのは聖武の妻の光明皇后のこと。
彼女は、父・藤原不比等が遷都を主導した平城京こそが大仏建立の地に相応しいと考えたのだろう。
また、一時、金鍾寺が皇后の管轄下にあったことを示す史料(『正倉院文書』)もあり、大仏はその旧金鍾寺境内に造立されてしかるべきだと考えたのかもしれない。