NHK大河ドラマでは山寺宏一が熱演!天皇を悪霊となって祟り殺した!?“天台宗”慈円の汚名は「濡れ衣」 (2/4ページ)
こうして誕生した近衛家と九条家はその後、摂政と関白を独占する
「五摂家」の嫡流を争うライバル関係となる。慈円は同母兄である兼実の支援を受け僧として出世してゆくが、そのため彼は生涯を通じ、九条家の安泰を願い、その発展に尽力するのである。
ところで、慈円は二歳で母を、一〇歳で父を亡くし、一三歳のときに覚かく快かい法親王(鳥羽天皇の第七皇子)を師として出家した。彼が宗教界に身を投じたのは、幼くして父母を失くしたことに関係するように思えるが当時、摂関家の子弟が僧となるのは決められたコースだった。
慈円もまた、同母兄の兼実が九条家の家長として政界入りした以上、出家の道を選ぶしかなかったといえる。彼が飛び込んだ宗教界は当時、世俗にまみれ、逆に言うと、それだけに慈円は「関白忠通の子」、あるいは「九条兼実の弟」として注目され、一六歳の若さで位の高い僧に与えられる阿闍梨の称号を得て、建久三年(1192)、わずか三八歳で天台座主の地位に上った。
ただ、慈円は実家の七光りだけで座主の地位を射止めたわけではなかった。二〇代の頃には比叡山の無動寺(延暦寺の塔頭の一つ)で「千日入堂」を果たしている。無動寺に千日間詣でて祈り続けるという荒行だ。この修行を終えた慈円が山を下り、世俗にまみれた延暦寺を離れて本格的に修行したい旨を、兄の兼実に伝えているから、「千日入堂」が僧としての成長を促したのは間違いない。
しかし、その願いは受け入れられず、慈円が座主に就いた年に後白河法皇が崩御。当時の政界は、鎌倉で幕府を開いた源頼朝と京の朝廷の後鳥羽天皇や関白九条兼実を中心に運営されており、兄・兼実と頼朝は親しい関係にあったから、宗教界の事実上のトップである慈円を含め、ある意味、九条家が国を動かしていた時代でもあった。
やがて後鳥羽天皇は譲位して上皇(院)となり、慈円はその院の御所にも出入りし始める。