NHK大河ドラマでは山寺宏一が熱演!天皇を悪霊となって祟り殺した!?“天台宗”慈円の汚名は「濡れ衣」 (3/4ページ)
著書の『愚管抄』に「和歌が上手だというので摂政(兼実の子の九条良経)と同じようにもてなされた」と記し、上皇から「歌の会には必ず参会せよ」と命じられていたため、たえず御所に伺候していたという。
さらに彼は上皇直属の護持僧(貴人の心身護持を祈祷する僧のこと)としての役目も担った。
しかし、上皇の心身護持の願いはやがて、武家(鎌倉幕府)調伏へと変わったため、護持僧として慈円は上皇と距離を置き始める。
建保二年(1214)、六〇歳になっていた彼が四度目の座主を辞してしばらく経った頃より、上皇のために祈祷する回数が急減したのである。
というのも、慈円は幕府と朝廷が一体化して政治に当たる公武一和を理想と考え、その衝突を恐れていたからだ。特に承久元年(1219)には兼実の曾孫である九条頼経が次の将軍候補として鎌倉に下り、良経(前出)の娘が産んだ皇子(後の仲恭天皇)が皇太子になっていた。
■天皇の「自爆転倒死」が風評被害を生み出した
兄の兼実亡きあと、九条家の繁栄を祈り、かつ、政治信念である公武一和を願っていた慈円にとって、頼経の鎌倉入りが実現し、一族の中から次の天皇が約束されているこのときが得意の絶頂期であり、公武一和こそが九条家繁栄を保証する制度だと考えていたのだろう。
ちなみに、『愚管抄』もこの年に書き終えたとされる。この歴史書は今でこそ、この時代を知るための有力な史料とされているが、江戸時代の半ばまでは世に埋もれた存在で、それまでは九条家の中でだけ読まれていた。『愚管抄』には哲学書としての側面があり、九条家に関係する若い者たちに、いわば帝王学を授けるために記したともいわれる。その九条家の人々の中で、特に慈円がこの書を読んでもらいたかったのが仲恭天皇だったとみられる。
ところが、二年後の承久三年(1221)に挙兵した上皇軍は幕府軍の前に敗れて後鳥羽上皇は隠岐に流された(承久の乱)。このとき即位したばかりの仲恭天皇も幕府によって廃され、同時に九条道家(良経の子で頼経の父)も摂政を辞し、その地位はライバルの近衛家に奪われた。