将軍・徳川綱吉の時代に3度もの大火災…江戸時代の「元禄の大火」はなぜ起きた?

Japaaan

将軍・徳川綱吉の時代に3度もの大火災…江戸時代の「元禄の大火」はなぜ起きた?

「大火」だらけの江戸時代

江戸時代は火災が頻発した時代でもあり、特に江戸で起きた火災の中でも「大火」と呼ばれるものは49件も起きています。

江戸時代の歴代将軍は15人いるので、単純計算すると一人の将軍の時代につき平均3件は大火が起きていたことになります。

中でも特に大変だったのが第五代将軍・徳川綱吉の時代でした。この人の時代に、江戸の町は後に「元禄地震」と呼ばれる大地震に加え、元禄10年・11年・16年の三回、大規模な火災が発生しています。この三つを総称して「元禄の大火」と呼びます。今回はこの「元禄の大火」について解説します。

法隆寺蔵・徳川綱吉肖像(Wikipediaより)

まず元禄10年の大火は、現在の文京区大塚の善心寺という寺から出火し、旗本屋敷など363軒が焼失したものです。

その翌年、元禄11年に発生した火事では、京橋南鍋町の仕立物屋から出火し、大名屋敷や寺院など約2万軒が焼けました。死者も3,000人以上とされており、これは「勅額火事」「中堂火事」とも呼ばれています。

最後に元禄16年に発生した火事は、小石川の水戸藩上屋敷から出火したもので、この6日前には関東大震災と同レベルとされる元禄地震が起きたばかりで江戸は大混乱に陥りました。

大火の典型例

江戸時代、特に日本橋や京橋では二、三年に一度は大火が発生していました。

その最も大きな理由が「気象」です。当時の火災・大火は、まず、冬~春先にかけて季節風が吹き、降雨もない場合によく起きました。

それから春先や秋口の、日本海側を強い低気圧が通過して強風が吹く時期も同様です。実際、研究でも当時の大火のピークは9月から翌年の3月までで、それ以降は件数が急速に減るというサイクルだったことが分かっています。

このように、季節の変わり目の、風が強い時期や乾燥しやすい時期に火災が発生しやすいのは今も昔も変わりません。例えば昭和期に発生した函館大火酒田大火などは、どちらも海に面した町で、冬場の強風が吹きつけたことで大規模火災に発展しています。

昭和9年に発生した「函館大火」の説明図(Wikipediaより)

元禄の大火と呼ばれる三つの大火も、どれも火災の発生率がピークを迎えるシーズンに発生しており、いわば「江戸時代の大火」の典型だったと言えるでしょう。

しかし原因はそれだけではなく、当時の江戸では急激に人口が増加しており、それに伴って木造の家屋がたくさん建てられていたことも、火災の頻発と被害拡大の要因になりました。

火災拡大の原因は

元禄時代当時の江戸の町には全国から人が集まっており、人口は80万人に上ったと言われています。これが、続く享保年間(1716~36年)には130万人へと膨れ上がりました。

特に、町人たちが住む日本橋・京橋・神田あたりのいわゆる「下町」は人口密度が高く、表通りには商店が立ち並び、路地裏にも長屋がずらりと建っていました。住む人が多ければ、「火の元」もそれだけ増えることになりますし、大火になれば焼け出される人も多くなるのも当然でしょう。

ちなみに、このように大火の話ばかりしていると元禄時代は不吉な時代だったように感じられるかも知れません。しかし実際には都市部の人口が増加し、物流も発達したことで、さまざまな産業や娯楽が発展したのもこの時代の大きな特徴です。

この頃は町人たちも経済力をつけ、学問や芸術分野でも活躍するようになりました。こうした元禄文化を代表する人物の中には、近松門左衛門井原西鶴というビッグネームもいます。

さて前述の人口増に加えて、人々が住んでいた建物がほとんど木造だったのも見逃せません。しかも現代とは違い電気やガスがないので、料理をするにも暖を取るにも火を使う必要がありました。

これもまた、大火が起きやすくなる大きな要因だったと言えるでしょう。江戸の町は木造の家屋が密集していたことから、ひとたび火がつくとあっという間に燃え広がります。ここに乾燥や強風など気象上の悪条件が重なって、江戸時代の大火は発生していたのです。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「将軍・徳川綱吉の時代に3度もの大火災…江戸時代の「元禄の大火」はなぜ起きた?」のページです。デイリーニュースオンラインは、元禄の大火江戸江戸時代火災カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る