無念!鎌倉時代末期の六波羅攻めで討死した「太田守延」とは【前賢故実】 (2/3ページ)
「太田殿、加勢いたすぞ!」
「ありがたや。このまま一気に駆け上ろうぞ!」
共に京都入りを果たした両将は、聖尊を総大将(上将)として六波羅探題を攻めたのでした。
……が、この合戦で守延は討死。配下の将兵にも300余名の犠牲を出してしまいます。かくして太田守延は、倒幕の大義に生命を散らしたのでした。
終わりに
太田守延。称三郎左衛門。但馬人也。為検非違使。元弘中。北条高時還皇子聖尊於但馬。守延時為国守護。仍命監察為及左近衛中将忠顕奉 勅復京。守延奉聖尊起義兵進会忠顕于丹波。忠顕甚悦之。乃推聖尊為上将。與倶攻六波羅。守延戦敗死之。従死者三百人。
※菊池容斎『前賢故実』巻之九
【意訳】太田守延は三郎左衛門と称した但馬の人なり。検非違使となる。
元弘年間中、北条高時が聖尊(後醍醐天皇の皇子・静尊法親王)を但馬国へ配流した際、但馬の守護であった守延はその監視を命じられた。
しかし守延は聖尊を奉じて幕府討伐の義兵を挙げ、上洛の道中で千種忠顕らと合理する。
共に京都・六波羅攻めに参加するが、抵抗激しく討死。その他死者は300名にも及んだという。