無念!鎌倉時代末期の六波羅攻めで討死した「太田守延」とは【前賢故実】 (3/3ページ)

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【太田守延・略年表】 生年不詳 但馬国で誕生(1歳) 時期不明 元服し、三郎左衛門守延と称する 時期不明 検非違使を務める 時期不明 但馬国の守護に任じられる 元弘2年(1332年)聖尊が但馬国へ配流、その監視を命じられる 元弘3年(1333年)聖尊を奉じて挙兵、六波羅攻めで討死

※なお、聖尊の消息は不明。

以上『前賢故実』より太田守延の生涯をたどって来ました。

歴史の大きな変わり目に立ち会いながら、新たな世の幕開けを見ることが出来なかった無念は、察するに余りあるもの。しかし、こんな考え方もあるでしょう。

たとえ収穫には立ち会えなくても、私は子供たちのために麦をまこう。たとえ自分は生命を落としても、この犠牲が次世代に幸(さきわ)う種となる。

そう信じられたからこそ、古来多くの勇士たちが私心を乗り越え戦場へ臨んだのではないでしょうか。

そんな太田守延の生き方は後世に伝えられ、現代でも私たちの胸を打ちます。

※参考文献:

菊池容斎『前賢故実 巻第九』国立国会図書館デジタルコレクション

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