日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【後編】 (3/4ページ)
これに反するのは憲法違反だとして、対立関係にあった議員は藩閥政治と陸軍を批判するようになりました。「政府は憲法を護れ」ということで、この動きは護憲運動と呼ばれたのです。
民衆の怒りも爆発し、政府系新聞社や警察署も襲撃を受け、鎮圧のために軍が出動する事態に発展しました。
やむなく第三次桂内閣は1913年に退陣し、「民衆が内閣を倒した」日本史上初めての例となりました。
無念の退陣と逝去しかし、桂もただ退陣したわけではありません。前述の第一次護憲運動によって政党内閣からの非難を浴びたことで、政党の必要性を痛感した桂は、第三次内閣発足後に政友会に対抗する新党設立を考えていました。
しかし「政党嫌い」の元老・山縣有朋がこれを許さなかったのです。
桂はここで抵抗を押し切り、大隈重信と協力して新政党を組織しようとしますが間に合わず、志半ばでの退陣となったのでした。