日露戦争も乗り切った大宰相・桂太郎!その卓越した手腕と悲劇的最期【後編】 (2/4ページ)
内閣退陣の元凶となった陸軍大臣・上原勇作(Wikipediaより)
誰が首相になっても、その人が非難を浴びるのは明らかで、誰もが首相就任を拒みました。また政党嫌いの山縣有朋は政党政治家の擁立を許さず、やむを得ず桂太郎が再び内閣を組むことになりました。
この時、彼が首相になることを引き受けたのは、高齢の山縣有朋に後輩として迷惑はかけられない、と考えたからだと言われています。そして桂はこの時の無理が遠因となって命を落とすことになりました。
第一次護憲運動による暴動第三次桂内閣が成立した流れは、桂にとっては悲劇的だったと言えます。もともと彼は「山縣寄り」の人間と見なされていましたし、宮中で内大臣兼侍従長に任ぜられた桂が、第二次内閣退陣から四カ月そこそこで首相になるのは「宮中・府中の別」のルールを乱すとして非難され、第一次憲政擁護運動が起きたのです。
宮中・府中の別とは1885年に確立した暗黙のルールに近いもので、一度宮中に入った人間は政治家として政府内で仕事をしてはいけない、というものです。